本井英さんの「大正四年冬の虚子」2022/08/12 07:11

 本井英さんの「大正四年冬の虚子」は、明治32年の病気静養に始まり、大正4年12月の「於糸サン」『道草』一件に至る、虚子の修善寺逗留の軌跡をたどる。 明治40年1月のそれは『国民新聞』に、「修善寺紀行」「五六本の松」「桂川」「白雲」「富士の夕日」「車中」を掲載、後に『俳諧一口噺』として上梓した。 明治41年9月は、前月8月の1か月神田区の自宅で「日盛俳句会」を開催し、最終日に「俳壇引退」を宣言、10月からは『国民新聞』文芸部部長に転身することになっていた、その間の逗留で、『国民新聞』に「修善寺日記」(毎日新聞社版全集所収)として連載した。 9月14日には、東京の松根東洋城から電報で「センセイノネコガシニタル ヨサムカナ」と漱石の「猫」の死を伝えてきたのに対して、「ワガハイノ カイミヤウモナキ ススキカナ」と返電している。 翌明治42年は7月から8月にかけ、正岡子規の母堂、八重、ほか妻糸や5人の子供達まで同道しての「大家族旅行」で逗留、「ホトトギス」8月号掲載の写生文「修善寺紀行」にも詳細が記されている。 修善寺の新井屋を「定宿」として心から寛ぎ、第二の「書斎」として仕事をする場所であるばかりでなく、ふとした沈黙・静寂の裡に「安住」「静止」「冷却」「調和」「死」といったプロセスを心に感じる、虚子に内省的な「心の安らぎ」を覚えさせる土地となりつつあったことをも感じさせる、と本井さんは指摘している。

 虚子の人生にとっての、恐らく最大の痛恨事が起こった。 7月30日に明治天皇が崩御して、大正となった8月に生まれた虚子の四女六子が、大正3年4月22日に短い生涯の幕を閉じた。 その一生は病気ばかりで過ごしたといってもよいほどであったが、虚子は三年後「「死んだ方が此子自身にとっても仕合せだ」と私は幾度も心の中でさゝやいたことがあった」と赤裸々に綴っている(「鎌倉の一日」)。 虚子が大正3年春に味わった苦しみは、「死に行く運命」を背負った我が娘の「死」を、積極的に望んでしまった自らへの叱責の念ということが出来よう。 懊悩する虚子の様子を見て、当時鎌倉に仮寓して親しく交遊していた神津雨村夫妻は、自分たちが参禅している東慶寺の釈宗演禅師の下に参禅しないかと誘ったのだった。

 大正3年11月、虚子は『朝日新聞』に連載する「柿二つ」を書くために修善寺新井屋に逗留し(『国民新聞』に「修善寺日記」を掲載)、12月には「ホトトギス」翌年4月号から連載される「進むべき俳句の道」の企画を構想していた。 本井さんは、「修善寺の霊泉に、虚子をして、さまざまのアイデアを生む効果まであったと考えると、虚子と修善寺の特別の関係が思われてくる。」とする。

 虚子の短編「落葉降る下にて」は、雑誌『中央公論』大正5年1月号に掲載された。 近年逝かせてしまった四女については自分の介護が十分でなかったことへの悔恨を吐露、「凡てのものの氓びて行く姿を見やう」と考えて子供の死を待ち受けていて、その後の墓参では、凡てのものの亡び行く姿、中にも自分の亡び行く姿が鏡に映るように墓標に映って見えた。 「諸法実相」というのはこのことだ、唯ありの儘をありの儘として考える外はないと思った、などとある。

 本井英さんは、現代的な映像作品などに接し、広く「動物界」に眼を転ずれば、鳥類などでは限度を越えて育ち遅れた雛鳥に餌を与えなくなる親鳥の姿を見かけるのは珍しくない、という。 「なるようにしかならぬ」という考えは、発想を転換して、物事を積極的に「他力」に委ねてみるというのも、一つの立場として或る意味合理的と言えなくもない。 そして、それこそが、冒頭の「ボトル・レター」のエピソードに繋がる。 この大正4年12月の虚子の心境こそが、一方で「ボトル・レター」のエピソードを作り、一方では一年半悩んできた「愛嬢の死」への蟠りを解決する糸口になった。 この虚子の考えは、戦後の『俳句への道』中、「もののあはれ 二」の究極の世界観に達し、昭和29年7月の「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」の吟に至り着く、と本井英さんは結論する。

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