「榎本武揚」で<小人閑居日記>を検索(その1)2022/11/20 07:46

 福沢が戊辰戦争後の古川節蔵(正雄)と同じように、新政府軍に捕らえられた榎本武揚の救出に関わったことを、どこかに書いたような気がして、探してみたが、出て来なかった。 それはまた、改めて書こうと思う。 「榎本武揚」は、いろいろあった。

  〇『瘠我慢の説』<小人閑居日記 2003.1.7.>

『瘠我慢の説』というのは、福沢が勝海舟と榎本武揚が維新政府の高位高官になったのを批判したものだ。 福沢はこれを明治24年に書いたが、その写本を勝と榎本に贈り、いずれ適当な時期に発表したいが、当分は一、二の友人に示すだけで、世には公にしないつもりである、しかし書中に誤りがあれば御指摘いただきたいし、また趣意にご意見があれば承りたいと申し入れた。 勝は「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せず」として、他人に示しても異存はないと答えてきたが、榎本は忙しいのでいずれ返事をするといってきただけで、そのままになった。

〇鴎外の最初の妻、その華麗なる姻戚<小人閑居日記 2010. 7.2.>

森まゆみさんの『鴎外の坂』で確認する。 長男於莵を産み、一年ほどで離別した登志子の父は幕臣、深川の御徒士の出で赤松大三郎則良、長崎海軍伝習所で学び、咸臨丸渡航の時は19歳、少年士官として参加している。 のちに西周、榎本武揚、林研海(のちの陸軍軍医総監林紀(つな))、津田真一郎(真道)と一緒にオランダへ留学し、海軍の知識と造船技術を学び、後年海軍中将になった。 幕末の混乱でオランダから急遽帰国したが、幕府は瓦解、到着したのは上野戦争の二日後であった。 帰国後、赤松は林紀の妹貞を妻とし、榎本武揚も林紀の妹多津を妻とした。 西周は林の弟紳六郎を養子とし、林、榎本、赤松、西は深い姻戚関係を結ぶ。 実は林紀の父は林洞海で、母つるは佐倉順天堂の佐藤泰然の娘だから、尚中(しょうちゅう・養子…東京下谷→湯島の順天堂病院創始者)、順(良順…陸軍軍医総監)、董(ただす…林洞海の養子、外務大臣)は、母の兄弟である。 西周は森家と同じ津和野の藩医の子で、森家と親戚筋に当る。 維新後、いったん慶喜に従って静岡に赴き、沼津兵学校の校長を務めた。 新政府の要職をつとめながら『万国公法』を訳し「明六社」を興した開明的知識人である。 森家が上京したのも西のすすめで、鴎外と登志子の結婚に際しては、西周が仲人をつとめた。 中村楼での披露宴には、林紀や榎本武揚も姻戚として出席したという。

〇今井信郎のこと<小人閑居日記 2010. 8.22.>

坂本龍馬が京都の近江屋で暗殺されたのは、慶應3(1867)年11月15日の夜。 暗殺犯は特定されていないが、定説では徳川幕府側の京都見廻組の七人ということになっている。 その七人の中に、今井信郎がいた。 戊辰戦争では、榎本武揚に従い北海道箱館で最後の抵抗を試みたが、降伏している。

〇郡司大尉一行、ボートで千島探検へ<小人閑居日記 2012. 2. 21.>

1875(明治8)年、日露全権大使の榎本武揚とゴルチャコフによって、樺太千島の交換条約が締結され、南樺太の権利を放棄するかわりに、千島列島の全てが日本の領有となった。

〇吉祥寺を覗く、由緒ある寺だった<小人閑居日記 2015.11.22.>

本駒込の吉祥寺に、榎本武揚の墓。

〇『現代語訳 福澤諭吉 幕末・維新論集』<小人閑居日記 2016.3.1.>

ちくま新書、「旧幕臣の勝海舟・榎本武揚を筆で斬り、賊軍の首魁として散った西郷隆盛を弁護する」『瘠我慢の説』の山本博文さんの現代語訳と解説も収録。

「榎本武揚」で<小人閑居日記>を検索(その2)2022/11/21 07:02

〇松本良順の洋式病院「早稲田蘭疇医院」<小人閑居日記 2017.7.14.>(この件、平井一麥さんから頂いた本によったのだった。)

松本良順は維新の戦いで弟子の医師たち9名で幕軍方に投じ、会津で戦傷者の治療に当たり、鶴岡まで行く。 仙台の榎本武揚からの書状で、松島湾に碇泊中の「開陽丸」に行き会見、蝦夷への同行を勧められるが、土方歳三が「先生は前途有為なお方です。戦乱に巻き込まれ、命を失うようなことがあってはなりません。江戸にお帰り下さい。私のような武事以外に能なき者は、力のかぎり奮戦し国のために殉ずるのが定め。」と説いた。 良順は土方の言葉に従い、オランダの武器商人スネルのホルカン号で横浜へ密航し、横浜のスネルの商館に1か月ほど身を隠していたが、官軍に捕らわれ取り調べの後、本郷加賀屋敷に幽閉の身となる。

〇ペリー来航150年の久里浜浦賀へ行く・中島三郎助[昔、書いた福沢176]<小人閑居日記 2019.12.20.>

浦賀港を見下ろす愛宕山公園に登って、「咸臨丸出航の碑」(昭和35年(1960)年建碑、裏に咸臨丸乗組員全員の名前が刻んである)、『福翁自伝』に「いま浦賀の公園に立ってある」と出て来る中島三郎助の招魂碑も見た。(福沢にとっては、二度目の訪米時の小野友五郎との一件での恩人でもある)中島三郎助、戊辰戦争では榎本武揚に従って函館まで行き、五稜郭の戦いで恒太郎、房次郎の二子とともに奮戦して死んだ。 中島一家戦死の翌々日、榎本武揚は官軍に降参し、戦争が終わる。

〇清水の次郎長と咸臨丸〔昔、書いた福沢90〕<小人閑居日記 2019.7.31.>

明治元年9月18日、清水港で修理中の咸臨丸が政府の軍艦三隻に攻撃される事件があり、放置された幕臣の遺体を清水の次郎長が「仏に官軍も賊軍もあるものか」と葬った。明治20年、清水市興津の清見寺で旧幕臣たちによる盛大な慰霊祭が行なわれ、榎本武揚が「食人之食者死人之事(人の食を食む者は人の事に死す)」と揮毫した立派な石碑が建てられた。 福沢諭吉は明治23年1月、清見寺でこの碑を見て、『史記』にある「二君には仕えない」というこの言葉に感ずるところがあり、すぐに榎本武揚と勝海舟に宛てた『痩我慢の説』を書いたと伝えられている。

福沢、榎本武揚救出に老母の嘆願書を代作2022/11/22 07:13

 福沢が戊辰戦争後、新政府軍に捕らえられた榎本武揚の救出に関わった話をどこかに書いたと思ったのは、『福翁自伝』にもある有名な話だったからかもしれない。 古川節蔵が明治2年5月下旬から和田倉門内の糾問所に収監されたのを追いかけるようにして、5月18日に箱館五稜郭で降伏した榎本武揚も7月には東京に護送されて来た。

 9月初めになって、福沢のところに、静岡に転封となった徳川本家に従っていた榎本武揚の妹歌の夫江連堯則(元外国奉行)から、武揚の消息が知りたいという8月11日付の手紙が届いた。 東京にいる親戚たちに問い合わせても、新政府に最後まで抵抗した榎本と関わり合うのを恐れて、何もしてくれないというのだ。 江連が福沢を頼ったのは、福沢の妻錦と榎本家に姻戚関係があったからだと思われる。 福沢はまず、榎本の親戚たちに腹を立て、9月2日付の返信(『福澤諭吉書簡集』第1巻、書簡番号74)で、竜の口の糾問所(場所の地図入り)の様子や待遇を知らせ、薩摩の運動もあって処刑される心配はないだろう、御母堂様(榎本の母)にその旨伝え、数日福沢家に泊まっていた「今泉のおばばさん」の手紙を渡してくれ、と書いた。 榎本の母は、一橋家の御馬方の林代次郎の娘で、幕府の御徒の榎本円兵衛(『福翁自伝』による。ウィキペディアは武規(箱田良助)。他に、左太夫とも。)に嫁し、その次男が釜次郎武揚だった。 平山洋さんは『福澤諭吉』(ミネルヴァ書房)に、この「今泉のおばばさん」について、福沢の妻錦が子供の時、御徒町の榎本家に連れていってくれた「おばあさん」ではないかと推測している。 錦は幼少の時、中津藩用人今泉家の養女となっていた、その養母が「今泉のおばばさん」で、榎本の母琴と姉妹である可能性があるというのだ。 すると榎本と錦の二人は、錦が土岐家に戻る文久元(1861)年まで従兄妹の関係にあった幼なじみだということになる。

 福沢の手紙に喜んだ江連の、榎本の母琴と姉楽が東京へ出たいと言っているとの返信に、福沢が応諾、東京に来た二人は差し入れなどしていたが、母親が武揚に会いたいと言い出した。 福沢は一計を案じ、母琴の嘆願書を代作、男の手ではまずいというので、姉楽が清書した。

 「今般せがれ釜次郎犯罪の儀まことにもって恐れ入ります、同人ことは実父円兵衛存命中かようかよう、至極孝心深き者で、父に仕えては平生は云々、またその病中の看病は云々、わたしは現在ソレヲ見ています、この孝行者にこの不忠を犯すはずがない、彼(あ)れに限って悪い根性の者ではございません、ドウゾお慈悲にお助けを願います、わたしはモウ余命もない者でござるから、いよいよ釜次郎を刑罰とならば、この母を身代わりとして殺して下さい」という趣意で、わからない理屈をかたことまじりにゴテゴテあつかましく書いた。 おばあさんが哀願書を持って糾問所へ出かけたところ、これがよほど監守の人を感動させたらしく、獄窓を隔てて母子の面会が叶った。

 福沢に榎本助命のもう一つの計略があったが、それはまた明日。

榎本助命、福沢の計略と黒田清隆2022/11/23 07:18

 維新の元勲のうち、最も早く福沢に接近したのは、薩摩の黒田清隆だろう、と富田正文先生の『考証 福澤諭吉』下にある。 その当時は、黒田が福沢の家に来れば、福沢も黒田の家に行ったこともあるという。 黒田は五稜郭に立てこもった榎本武揚の追討軍参謀として箱館に赴き、五稜郭陥落の前夜に「皇国無二の宝書」をむざむざ戦火に失うに忍びないとして、榎本から『万国海律全書』を贈られ、籠城の将士の労苦をねぎらって清酒五樽を返礼として届けたという陣中美談が残っている。

 ある日、新政府の筋の人が二冊の蘭書を福沢のところに持ってきて、訳してくれないかと頼んできた。 見ると俗に『万国海律全書』と呼ばれる海上国際法の写本である。 フランス人オルトランの原著を、榎本武揚のオランダ留学中の教師フレデリクスが全文をオランダ語に翻訳し、これを浄写させ、背皮の美しい装幀に仕立てた二冊の稿本で、表紙の背とタイトル・ベージと序文だけが活版で印刷され、本文はすべてペン書きである。 その序文に、師フレデリクスより日本留学生榎本釜次郎に贈る旨が記されている。 かねて噂に聞いていた、五稜郭陥落の前夜に榎本から黒田清隆に贈られた、榎本の講義筆記に違いない、これは面白い、蘭文翻訳はたやすいことだが、先方に気を持たせるように、初めの方、4、5枚だけ丁寧にわかるように翻訳して、原本に添えて返してやって、これはいかにも航海にはなくてはならぬ有益な書に違いない、巻初の訳した所を見てもわかる、ところが版本の原書ならば翻訳もできるが、講義筆記であるから、その講義を聴聞した本人でなければ、なにぶんにもわかりかねる、まことに惜しい宝書でござる、と言った。 福沢は、榎本の筆記と知りながら、知らぬ風をして、ただ翻訳の云々で気をもませて、自然に榎本の命が助かるように、いわば伏線の計略を巡らせたのだった。

 もちろん福沢が代作した老母の嘆願書や、榎本に翻訳させる計略だけが、功を奏したわけではない。 長州の要人たちは死刑説を主張したが、黒田清隆は極力榎本をかばって、時にはみずから髪を切って坊主頭になったり、時には腹を切るとまで極言して、榎本の助命のために奮闘し、ついに寛典に処することに決定し、明治5(1872)年1月6日、榎本は特赦により出獄、3月6日放免された。 同月8日には黒田が次官を務めていた開拓使に、四等出仕として任官する。 西郷隆盛も、黒田の勇力を高く評価する書簡を残しているそうだ。

「神さまのお引越し 春日大社20年に一度の遷御」2022/11/24 07:03

 「神さまのお引越し 春日大社20年に一度の遷御」というNHK BSプレミアムが10月28日の春日大社の式年遷宮を中継した番組を、録画しておいて見た。 春日大社は、御蓋山(みかさやま)を神奈備(かんなび・平城京を中心とする神体山)として西麓に神地が設定されている。 藤原氏の氏神、当初は平城京の守護神、平安中期以降は興福寺の鎮守。 延喜20(920)年の宇多法皇の御幸以降、天皇行幸が行われ、至徳2年・元中2年(1385年)の足利義満以降、室町将軍の参詣も行なわれるなど、朝廷・武士からも信仰された。

祭神は鹿島社より迎えたタケミカヅチノミコト(第一殿)、香取社より迎えたフツヌシノミコト(第二殿)、枚岡神社(東大阪市出雲井町)よりのアメノコヤネノミコト(第三殿)とヒメカミ(第四殿)。 今回の舞台、若宮本殿は、第三殿と第四殿夫婦の御子神様として平安中期の長保5(1003)年に春日龍神(水の神)として誕生したアメノオシクモネノミコト(天押雲根命)を保延元(1135)年に祀った社殿。 平安時代の終りに、疫病や飢饉が続いたので、時の関白藤原忠通が若宮を祀ったところ、禍を祓い去り、好天で豊作となったので、万民ことごとく歓喜して踊ったという。 以来、若宮には大和の人の心の拠り所、「知恵と生命の神」として篤い崇敬が寄せられ、若宮への御間道(おあいみち)に奉納された灯籠の数はおびただしく、春日の万灯籠と称される。

そこで、10月28日夜の「神さまのお引越し」本殿遷座祭だが、本殿の20年に一度の造替(ぞうたい・つくりかえ)の間、仮殿に安置してあった神様を「淨闇(じょうあん)」という暗闇の中、本殿にお移しする儀式だ。 NHKの放送席は、南門の下、渡邊佐和子アナ、ゲストが大河ドラマ『青天を衝け』で渋沢栄一の妻をやった橋本愛、解説が櫻井治男皇學院大学名誉教授、ここも儀式が始まると暗くする。 若宮本殿の下には、秋篠宮佳子内親王も参列された。

 暗闇の中、小さな篝火で足元を照らされた花山院弘匡(かさんいんひろかず)宮司を先頭に、神職たちが列をなして、仮殿へ向かう。 宮司が祝詞をあげ、大きな御幣でお祓いをし、摂関家(摂政関白に任じられる家柄)代表の九条道成(明治神宮宮司)氏が続く。 仮殿からの通り道には、雲形幕、おめでたい紫雲の幕が張られている。 明りが全て消されて、淨闇となる。 警蹕(けいひつ)の声というのを、落語の大岡越前守の奉行所、お白洲の場面で聴いて知っていたが、ここでの警蹕は「ウォーーッ、ウォーーッ」という声が、途切れずに続くのだ。 南都楽所(がくそ)の雅楽の演奏が始まる、遣唐使が伝えたという曲「還城楽(げじょうらく)」だそうだが、これもずっと続く(内緒だが、奏者の手元だけは明りがある)。 御神霊は、お姫様を隠すような御差几帳(おさしぎちょう)という巨大な笠で覆って運ばれる。 仮殿から、南門、御間(あい)道を通って、若宮本殿まで。 ゆったりとした時間が流れる。 御神霊が若宮本殿に入り、警蹕が止む。 神職が拝礼し、「ウォーーッ、ウォーーッ」の声とともに御扉が閉じられ、雅楽の演奏が終わる。 闇の闇の中、鹿の鳴き声が聞こえる。

 明かりがともって、春日造の若宮本殿が現れた。 献饌(けんせん)、米、海の幸山の幸が供えられる。 宮司奉幣、花山院宮司が大きな紅白の御幣でお祓いをし、祝詞を奏上する。 摂関家代表も奉幣する。 この後、番組には入らなかったが、佳子内親王の奉幣もあったという。

 若宮本殿、20年に一度の式年造替で、檜皮葺が葺き替えられて、鮮やかな朱塗が本朱(水銀100%)でなされ、小西美術工藝社が担当した。 御翠簾(ごすいれん)という御簾が架けられる、京都のみす平が720本の竹ひごに緑の漆を塗ったという。 鎌倉時代からあるという二万の瑠璃玉で作られた瑠璃色の灯籠の、新調したものが吊り下げられた。 昭和5年に国に撤下された「金鶴及銀樹枝」「銀鶴及磯形」の御神宝も新調復興された。

 2時間の暗闇、心の静まるような時間だった。 退屈もせずに付き合うことができたのは、この国の伝統というものをひしひしと感じていたからだろうか。