等々力短信 第1173号は…2023/11/25 06:58

<等々力短信 第1173号 2023(令和5).11.25.>徳川慶喜家の「墓じまい」 は、11月16日にアップしました。 11月16日をご覧ください。

内藤湖南、中国問題の第一人者2023/11/25 06:59

 22日の根津美術館「奇跡の展覧会」「北宋書画精華」で、中国史家で北宋絵画の重要性に気づいた内藤湖南という名前が出て来た。 『英雄たちの選択』が内藤湖南を取り上げたのを思い出した(2022年3月21日BSプレミアム)。

 内藤湖南は、慶応2(1866)年秋田毛馬内(鹿角市)の南部藩の儒学者の家に生れ、本名内藤虎次郎、父に漢学を仕込まれ、明治16(1883)年18歳で秋田師範学校へ進学、英語に情熱を持ち、明治20年上京、英語学校で学んで、雑誌社に入って認められ「萬報一覧」を書くジャーナリストとなり、世界情勢に目を向け、なかでも隣国の清朝に強い関心を持った。 やがて大阪朝日新聞社で論説担当者となり、中国問題の論壇第一人者として外務省の対華政策にも献言する。 明治40(1907)年、師範学校出のジャーナリストなのに異例の抜擢で、狩野亨吉(かのうこうきち)によって京都帝国大学に招かれ、2年後43歳で教授、東洋史学担当、翌年文学博士になった。

 『英雄たちの選択』は「千年のまなざしで中国をみよ 内藤湖南が描いた日本と中国」の題で、知の巨人が見抜いた中国の本質とは? だった。 内藤湖南(1866~1934)は、型にはまらないスケールの大きさ、扱う時代の広さ、空間の広さ、学問分野の制限がなく、全球的視野で物を書いた。 中国のあらゆるものに関心を持ち、大阪府吹田市の関西大学には、『永楽大典』から甲骨片、満州のホテル領収書まで、収集と保存の鬼だった湖南の5万点に及ぶ「内藤湖南文庫」がある。

 日本人は福沢諭吉のような知識人も含めて、明治27、8年の日清戦争で清の脆弱性が露呈したことによって、日本がアジアの盟主であるという感覚を持ってしまった。 軽率な者は、中国を守旧の代表として見る。 しかし、内藤湖南は文明を相対化して見ていて、中国は停滞などしていない、特徴ある文明を持ち、日本以上に西洋と接触しながら進歩してきたとする。 政治制度の改革を長い歴史の中で考えると、「経世思想」、学問を政治行政など治世に役立てる実践的な思想、スキルがあった。 現実社会の問題を解決するために、歴史を実証的に検証する姿勢が培われていた。 湖南は、中国の経世家の著作や経世済民の実践をずっとフォローして、一生懸命吸収し、実践した。 日露戦争で、明治38(1905)年奉天を占領すると、清朝誕生の都だったここで、残された多くの歴史文書の実証的研究をし、自他ともに許す中国通となった。