寺崎修さんの「福沢諭吉の近代化構想」 ― 2024/11/08 06:53
寺崎修さんの「福沢諭吉の近代化構想」<小人閑居日記 2024.11.8.>
その2008年、5月30日に福澤研究センター開設25年記念講演会があり、寺崎修さんの「福沢諭吉の近代化構想」、松浦寿輝(ひさき)さんの「福澤諭吉のアレゴリー的思考」を聴いた。 それを、この日記の下記に書いていた。 それぞれ興味深いのだが、今回の話の流れから、寺崎修さんのものを再録しておく。
「福沢諭吉の近代化構想」その一<小人閑居日記 2008.6.6.>
「福沢諭吉の近代化構想」その二<小人閑居日記 2008.6.7.>
日本近代の基本線を一気に引いた福沢<小人閑居日記 2008.6.8.>
福沢文章のすごみ、比喩の面白さ<小人閑居日記 2008.6.9.>
ナンセンス的な面白さ<小人閑居日記 2008.6.10.>
いわゆる「楠公権助論」<小人閑居日記 2008.6.11.>
「福沢諭吉の近代化構想」その一<小人閑居日記 2008.6.6.>
落語研究会の翌日、5月30日は福澤研究センター開設25年記念講演会を三田の北館ホールへ聴きに行った。 午後2時から6時まで、充実した三講演が聴けた。 最初は寺崎修さん(武蔵野大学学長、3月まで慶應法学部教授・福澤研究センター副所長)の「福沢諭吉の近代化構想」。 福沢の思い描いた近代化日本を、天皇制・議会・内閣・地方制度を中心にまとめてくれて、たいへん有益だった。
○天皇制…福沢は明治15年の『帝室論』で「帝室は政治社外のものなり」と、帝室を政争の具に使うなと説き、帝室の役割を人の勧賞、学術技芸の奨励、伝統文化の保存、社会福祉など、国民の人心を統合(収攬)する中心だとした。 それは戦後の新憲法の象徴天皇制とほとんど同じ考え方だった。
○議会…自由民権運動に対して、最初福沢は協力的だったが、明治10年以降、運動の過激化に違和感を持ち、いきなり国会を開くのでなく、まずは地方民会の充実と地方分権の確立をして、その代表が中央首府の大会議に出るべきだと説いた。(明治11年『通俗民権論』)
福沢の転換は早い。 明治11年9月愛国社という全国組織が再興され、自由民権運動が拡大すると、福沢はもはや理屈ではない、早晩政府は国会を開かざるを得ない状況に直面するだろうと判断、もっぱら国会を開けという議論を展開するようになる。(明治11年『通俗国権論二編』)
「福沢諭吉の近代化構想」その二<小人閑居日記 2008.6.7.>
○内閣…政府の変革を好むのは世界普通の人情だとして、世論の不満を解消する三、四年での政権交代が国の安定を維持すると、イギリスモデルの議院内閣制を説いた。(明治12年『民情一新』)
最先端の自由民権運動の主張(例えば植木枝盛「日本国国憲案」明治14年)は、人民直選の議会に立法の権があるとしたが、行政権は日本皇帝にあるとし、行政権に無関心だった。 政治論の中身は福沢の方がラディカルで、明治政府にとってきつい側面があり、井上毅(こわし)など一部官僚はそれに気付いて警戒を強めた。
○地方分権…明治10年の西南戦争後、福沢は『分権論』を書き、「政権」-外交、軍事、徴税、貨幣発行など中央政府の権限(これは徹底的に中央集権化)、「治権」-道路、警察、交通、学校、病院など一般の人民の周辺に存する権限、この二つを峻別して、地方に出来ることは地方に、と説いた。 100年以上経った現在、まだ議論中なのは情けない。 福沢はまた、地方への「分権」の議論があれば、「分財」の議論も無ければならないと、権限の委譲にはその財政的な裏づけが必要なことにも言及している。
こうした福沢の「近代化構想」が説かれたのが、まだ太政官制度の時代だったのは、驚くべきことだ。 当時の政治情勢を批判する過程で、こうした構想を示したのである。 これらはすべて、福沢の生前にはまったく実現されなかった。 福沢は日英同盟の必要も説いたが、その実現も生前ではない。 イギリスモデルの議院内閣制は、明治の天皇主権の帝国憲法下では実現せず、戦後の日本国憲法まで待たねばならなかった。 だが、二大政党制はようやく可能性が出て来たところだし、地方分権に至っては先に見たように未だに入口の議論が続いている状態だ。 100年前の福沢の提言で、まだ実現していないものが沢山ある、と寺崎修さんは指摘した。
その2008年、5月30日に福澤研究センター開設25年記念講演会があり、寺崎修さんの「福沢諭吉の近代化構想」、松浦寿輝(ひさき)さんの「福澤諭吉のアレゴリー的思考」を聴いた。 それを、この日記の下記に書いていた。 それぞれ興味深いのだが、今回の話の流れから、寺崎修さんのものを再録しておく。
「福沢諭吉の近代化構想」その一<小人閑居日記 2008.6.6.>
「福沢諭吉の近代化構想」その二<小人閑居日記 2008.6.7.>
日本近代の基本線を一気に引いた福沢<小人閑居日記 2008.6.8.>
福沢文章のすごみ、比喩の面白さ<小人閑居日記 2008.6.9.>
ナンセンス的な面白さ<小人閑居日記 2008.6.10.>
いわゆる「楠公権助論」<小人閑居日記 2008.6.11.>
「福沢諭吉の近代化構想」その一<小人閑居日記 2008.6.6.>
落語研究会の翌日、5月30日は福澤研究センター開設25年記念講演会を三田の北館ホールへ聴きに行った。 午後2時から6時まで、充実した三講演が聴けた。 最初は寺崎修さん(武蔵野大学学長、3月まで慶應法学部教授・福澤研究センター副所長)の「福沢諭吉の近代化構想」。 福沢の思い描いた近代化日本を、天皇制・議会・内閣・地方制度を中心にまとめてくれて、たいへん有益だった。
○天皇制…福沢は明治15年の『帝室論』で「帝室は政治社外のものなり」と、帝室を政争の具に使うなと説き、帝室の役割を人の勧賞、学術技芸の奨励、伝統文化の保存、社会福祉など、国民の人心を統合(収攬)する中心だとした。 それは戦後の新憲法の象徴天皇制とほとんど同じ考え方だった。
○議会…自由民権運動に対して、最初福沢は協力的だったが、明治10年以降、運動の過激化に違和感を持ち、いきなり国会を開くのでなく、まずは地方民会の充実と地方分権の確立をして、その代表が中央首府の大会議に出るべきだと説いた。(明治11年『通俗民権論』)
福沢の転換は早い。 明治11年9月愛国社という全国組織が再興され、自由民権運動が拡大すると、福沢はもはや理屈ではない、早晩政府は国会を開かざるを得ない状況に直面するだろうと判断、もっぱら国会を開けという議論を展開するようになる。(明治11年『通俗国権論二編』)
「福沢諭吉の近代化構想」その二<小人閑居日記 2008.6.7.>
○内閣…政府の変革を好むのは世界普通の人情だとして、世論の不満を解消する三、四年での政権交代が国の安定を維持すると、イギリスモデルの議院内閣制を説いた。(明治12年『民情一新』)
最先端の自由民権運動の主張(例えば植木枝盛「日本国国憲案」明治14年)は、人民直選の議会に立法の権があるとしたが、行政権は日本皇帝にあるとし、行政権に無関心だった。 政治論の中身は福沢の方がラディカルで、明治政府にとってきつい側面があり、井上毅(こわし)など一部官僚はそれに気付いて警戒を強めた。
○地方分権…明治10年の西南戦争後、福沢は『分権論』を書き、「政権」-外交、軍事、徴税、貨幣発行など中央政府の権限(これは徹底的に中央集権化)、「治権」-道路、警察、交通、学校、病院など一般の人民の周辺に存する権限、この二つを峻別して、地方に出来ることは地方に、と説いた。 100年以上経った現在、まだ議論中なのは情けない。 福沢はまた、地方への「分権」の議論があれば、「分財」の議論も無ければならないと、権限の委譲にはその財政的な裏づけが必要なことにも言及している。
こうした福沢の「近代化構想」が説かれたのが、まだ太政官制度の時代だったのは、驚くべきことだ。 当時の政治情勢を批判する過程で、こうした構想を示したのである。 これらはすべて、福沢の生前にはまったく実現されなかった。 福沢は日英同盟の必要も説いたが、その実現も生前ではない。 イギリスモデルの議院内閣制は、明治の天皇主権の帝国憲法下では実現せず、戦後の日本国憲法まで待たねばならなかった。 だが、二大政党制はようやく可能性が出て来たところだし、地方分権に至っては先に見たように未だに入口の議論が続いている状態だ。 100年前の福沢の提言で、まだ実現していないものが沢山ある、と寺崎修さんは指摘した。
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