大河内輝剛を、高崎の堤克政さんに尋ねる2023/09/13 07:01

 大河内輝剛に興味を持った私は、文化地理研究会の後輩で、「高崎城主大河内家の家老等を務めた堤家の十三代目」の堤克政さんにメールして、大河内輝剛について尋ねた。 すると、「大河内輝剛氏はユニークな人物で、兄の輝聲公に代わって当主の座に就けようと図った、後に自由民権運動のリーダーになった宮部襄たちに載せられ脱藩したり、その宮部と衆議院議員選挙で争ったりしています。/塾に学んだ背景は承知していませんが、福沢先生の指導で広島県尋常師範学校長を務めています。/祖父の堤寛敏と交流があり身近な存在です。」という、興味深々の返信があった。

 そこで私は、『福澤諭吉事典』『福澤諭吉書簡集』で調べた情報の概略を伝えて、脱藩や、広島県尋常師範学校長を務めたのや衆議院議員選挙に出たりしたのは、何年頃か、伝記や研究論文のようなものはあるのか、再度尋ねてみた。

 それに対し、堤克政さんは自著『ざんぎり頭の高崎』(あさを社・2015年)を贈ってくれた。 その第36話に「国政の椅子を争う昔の主従」があるのだが、そこに書かれた大河内輝剛の略伝については上毛新聞社発行の『群馬県人名大事典』により、選挙のことは祖父・寛敏の日記によったが、旧高崎藩士の間のことなので、この部分のことは殆んど世に知られていないと思う、とお手紙にあった(後段については、また明日)。

 「国政の椅子を争う昔の主従」で、大河内輝剛、脱藩は明治3年、衆議院議員選挙は明治35年の第七回から、翌年の第八回と当選、明治37年の第九回は落選とわかった。 実業界に転身後、日本精糖・東洋印刷・京浜電鉄の重役とあったが、私の調べにあった、「明治25年からは日本郵船に勤め、明治27年の日清戦争の頃は、清岡邦之助(福沢の三女しゅんの夫)とともに、広島宇品に勤務していた」の日本郵船は出てこなかった。

 なお、ウィキペディアに、広島県尋常師範学校長は、1887(明治20)年4月で1892(明治25)年6月まで、その年日本郵船会社勤務とあった。 大河内輝剛、1855年1月16日(安政元年11月28日)~1909(明治42)年10月9日。 日本郵船会社では、近藤廉平の代理として大本営の御用を務める。 1906(明治39)年に歌舞伎座社長となるが、在任中に胃癌のため死去、墓所は青山霊園、ともあった。

『福澤諭吉書簡集』の大河内輝剛2023/09/12 06:56

 つづいて『福澤諭吉書簡集』の大河内輝剛を見てみる。

第二巻、書簡番号287、渡辺洪基宛、明治11年12月12日付。 8月26日の「渡辺洪基宛ほか、関連の福沢書簡」に書いたように、渡辺洪基に、馬場辰猪の学習院教師採用を催促し、大河内輝剛の教員就職を依頼するもの。

 第三巻、書簡番号585、浜野定四郎宛、明治14年4月29日付。 この時塾長だった浜野定四郎に、大河内輝剛の塾監就任への働きかけを依頼する。

 書簡番号592、渡部久馬八宛、明治14年5月23日付。 義塾の事務を取り仕切る塾監で、帰郷途中の渡部久馬八から受けた便りに、後任の人選に当惑していたが、大河内輝剛に頼むことにしたと伝える。

 書簡番号598、小泉信吉・日原昌造宛、明治14年7月8日付。 塾監の渡部久馬八帰国、代りに大河内輝剛君を頼み、誠に好都合に御座候。

 書簡番号602、永井好信宛、明治14年8月19日付。 塾卒業生、永井好信の郵便汽船三菱会社の大阪転勤の挨拶状に返礼し、書簡番号598と同じことを伝える。

 第七巻、書簡番号1813、荘田平五郎宛、明治27年1月22日付。 山名次郎の日本郵船入社に賛成を願う。 委細は大河内輝剛(明治25年から日本郵船勤務)に聞いてくれ。

 第八巻、書簡番号1902、清岡邦之助宛、明治28年1月4日付。 清岡邦之助は、福沢の三女しゅんの夫、この時、大河内輝剛とともに日本郵船会社広島支店に勤務。 日清戦争の戦地から持ち帰ったドンキー(ロバ)を子供のために買い受けたいと述べる。 旧冬大河内輝剛出京の節、一頭の分捕ものあり、贈るべし云々と約束したのと、同じものか、と。

 書簡番号1911、清岡邦之助宛、明治28年1月22日付。 先だって大河内輝剛、広島より帰来、今度は横浜住居云々と語りし間もなく、にわかに宇品出張となった。

 書簡番号1916、清岡邦之助宛、明治28年2月25日付。 大河内輝剛その他によろしく。 大河内は、過日出京来訪の節、居合の運動の最中で、失礼した。 これは老生の養生ゆえ、勅命にても止められ申さず。

 書簡番号2102、荘田平五郎宛、明治29年10月10日付。 日本郵船会社の要職にある岩永省一、大河内輝剛が外遊から帰国したので、近日海外談を聞くつもり、と。

 第九巻、書簡番号2540、山田(伊東)要蔵宛、明治20年3月。 別表の、慶應義塾維持金収入表、凡ソ五ケ年間払込約束之部に、大河内輝剛、申込金額六百円、払込金額二百四円、とある。

慶應義塾に学んだ高崎の殿様の弟・大河内輝剛2023/09/11 07:01

 この日記の8月23日から、松平春嶽の子弟教育のことを書いたが、その流れで渡辺洪基のことに触れ、渡辺洪基宛の福沢書簡で、高崎の殿様子爵大河内輝声の弟大河内輝剛(てるたけ)が慶應義塾に学び、塾監までやっていることを知った。

その書簡は、書簡番号287、渡辺洪基宛、明治11年12月12日付。 渡辺洪基に、馬場辰猪の学習院教師採用を催促し、大河内輝剛の教員就職を依頼するもの。 後段の大河内輝剛は、旧高崎藩主の子爵大河内輝声の弟で、明治5年11月入塾、11年7月本科卒業、のち14年4、5月頃、渡部久馬八の後任として慶應義塾塾監に就任した。

『福澤手帖』73、川崎勝さんの「書簡からみた福沢諭吉と馬場辰猪―渡辺洪基、草郷清四郎宛他書簡」によると、大河内輝剛については「華族ニは珍らしき」人物で、「今華族中ニも斯る人物あるを知らしめなバ或ハ該族一般の面目随て学習院之飾ニも可相成哉ニ被存候」と、校風に新風を吹き込んで華族の刷新をはかることを意図しての推薦であったと考えられ、このことがまた渡辺の学習院改革に対する福沢の期待であった、という。 しかしながら、結局、馬場辰猪、大河内輝剛はともに、学習院の教師として雇われることなく終わったのだそうだ。

 そこで大河内輝剛を、『福澤諭吉事典』『福澤諭吉書簡集』を索引から見てみた。 まず、『福澤諭吉事典』。 「華族論」の項、福沢は明治2(1869)年の版籍奉還で「華族」となった公卿と諸侯について、明治初年から晩年まで折に触れて論じている。 そこには、期待と失望の両面を見てとることができるという。 明治10年に記した「旧藩情」では、華族が学校建設に取り組むよう期待しており、また、慶應義塾では外国人教師採用に私財を投じた太田資美(すけよし)を賞賛し、学業優秀だった大河内輝剛を学習院の教師に推薦している。 義塾は明治10年頃まで積極的に華族を受け入れており、その数は64名に達した。

 「大名華族との交流」の項。 廃藩置県(明治4年)前後から学習院発足(明治10年)前後までの間に、64名の華族が慶應義塾に入学しているが、そのうち57名は旧藩主家の当主、またはその子弟であり、岡部長職(ながもと・岸和田)、大河内輝剛(高崎)など、福沢から高い評価を受けた大名華族の塾生もいる。

 「国内旅行」「明治19年 東海道・京阪の旅」の項、同年3月10日から4月4日まで、福沢が前月没した緒方洪庵夫人八重の墓参と、鉄道の普及で各地の民情風俗が変化しないうちに視察するために、東海道・京阪に旅行したのに、大河内輝剛は、酒井良明、内田弥八、岡本貞烋(さだよし)、本山彦一とともに同行している。

 「三宅豹三」の項。 三宅豹三は、備後国(現広島県)出身で明治14(1881)年9月慶應義塾入学。 時事新報社員、後藤象二郎秘書、実業家。 三宅豹三は明治38年、経営が悪化した歌舞伎座の株を、井上角五郎、藤山雷太、大河内輝剛に買い取らせるなどして、専務取締役に就任している。

康荘の欧州留学、兵学から農学へ目的変更2023/08/24 07:07

 松平康荘(やすたか)は、明治16年6月に学習院に入学した。 しかし、翌年1月には一転して陸軍兵学修行のためのドイツ行きを決定し、父茂昭が6か年の洋行願を華族局に提出した。 海外留学が浮上した背景には、大山巌陸軍卿の欧州行があった。 康荘の送別会には東京在住の旧藩関係者百名余が集まり、慶永を中心とした旧臣の結束力が依然として高いものだったことが判る。

 康荘の留学には重臣子弟三名(橋本春、岩佐新、天方通義)が同行修行した。 しかし、康荘は陸軍兵学修行を断念し、イギリス王立農学校での農学修行に、留学目的を変更することになる。 このことについては、慶應義塾卒業生渡辺洪基を介し、福沢が助言したか、という。 この松平家家督相続人の留学目的変更には、旧家臣たちが憤慨した。 福井出身の在パリ公使館付海軍大佐で康荘の後見人、八田裕次郎も、単に農学を勧めたわけでなく、まずケンブリッジ大学なりとも入学し、貴族の貴族たる教育を受けるようにと勧めた。 慶永は、覚書に、康荘は大学校に入り大学者にならなくとも、心得違いなく、松平家を保護すれば幸福このほか無しと書いている。 慶永にとっての一番の幸福は「家の保護」であった。

 これはアメリカ留学中の長男一太郎が、学問の方向について迷ったのに対し、「何科にても、一人前の男と為りて自活の道を得れば夫れにて沢山なり」、「拙者の所望は唯貴様生涯の幸福に在るのみ」と書き送った「幸福」とは対照的である。

 このことで八田裕次郎は後見人を固辞し、慶永は農学校入学に合わせて、第一高等中学校教諭松本源太郎を学事監督として派遣する。 松本源太郎は、旧福井藩家老本多家の重臣松本晩翠の長男で、当時30歳、学術修行のため3年の予定で渡英した。 オックスフォード大学近辺に居住し、哲学や宗教等を聴講、同大での勉学と人的交流を深め、帰国後、第一高等学校教授。

 慶永が家の存続を強く望む一方で、旧態依然とした「御殿風」手法は次第に求心力を失っていった。 康荘は、明治22年5月、英国サイレンセスター王立農学校へ入学した。 翌明治23年4月28日付、慶永宛書簡で、「昨夏農学校ニ入学仕り候より此ニ始メテ生涯の目的も自立、尓来都合も宜敷、今日迄勇テ勉強罷在り候事ニ御座候」と書き送った。 慶永の下では混迷を深めた康荘も、長期にわたる留学の中で、自ら学ぶ目的を見い出し、ようやく自立の道に辿りついた。 同年6月2日慶永死去、7月25日茂昭死去、康荘は一旦帰国後、英国に再留学した。

 明治26年5月、福井城址に松平試農場を創設した。 これも渡辺洪基を介し、福沢が助言したか、という。 松平試農場Experimental Stationは、その後の華族農場のモデルとなった。

福沢諭吉と横井小楠の関わり2023/08/22 07:12

 福沢諭吉と横井小楠の関わりだが、『福澤諭吉事典』を索引から見ると、[人びと]「徳富蘇峰」の項に、蘇峰の父一敬が横井小楠の高弟で肥後実学党の中心人物だというのと、「松平慶永(春嶽)」の項に、文久期に三岡八郎や肥後から招いた横井小楠を抜擢・重用し、藩政改革を押し進めた、とあるだけで、直接の関係は見られない。

 平山洋さんの『福澤諭吉』(ミネルヴァ書房)は、副題が「文明の政治には六つの要訣あり」で、その要訣は慶應2(1866)年3月から6月にかけて執筆された『西洋事情』初編に述べられていた。 元治元(1864)年にできあがっていた未刊行の『西洋事情』は、江戸の各藩実学派によって次々と書写されたという。 外国の情勢はもとより、来たるべき日本の国の形はどうあるべきかを考える手引書として読まれるようになった。 そこには、政治や議会についても書かれていたから、「幕末にそんなことを考えたのは小楠だけだった」わけではなかったのだ。

 そこで、改めて平山洋さんの『福澤諭吉』の索引から、「横井小楠」を見てみたら、二か所があった。 一つは、「五箇条の誓文と『西洋事情』」の小見出しのところ。 五箇条の誓文は諸侯会議派の参与由利公正(福井藩)と福岡孝弟(たかちか・土佐藩)が中心になって立案したもので、由利は実学者横井小楠の弟子、福岡は後藤象二郎や坂本龍馬とともに土佐藩実学派を牽引してきた人物で、やはり小楠の影響下にあった。 「諭吉は熊本藩の太田黒惟信(これのぶ)や牛島五一郎といった小楠門下生と交流していたので、議会政治と経済振興策を主眼とする小楠の思想は、諭吉の発想にも影響を与えた可能性がある。一方小楠の弟子筋としては、『西洋事情』が出版されたことで、それまで曖昧にしか把握できなかった議会や金融の仕組みを正確に理解できるようになったという利点があった。」

 もう一つは、小見出し「日本全国にパブリック・スクールを作る」のところ。 「新政府は薩摩・長州・土佐・肥前の四藩が中心となって組織された寄り合い所帯であったばかりでなく、思想的な立場も尊王派と実学派がいがみ合いつつ同居しているという状況にあった。薩・土・肥は維新直前まで幕府と協同歩調をとっていた実学派指導の藩で、横井小楠の実学思想の影響下にあった熊本藩や福井藩の勢力をも与党としていた。五箇条の誓文の原案を練ったのはこのグループである。新政府実学派は西洋の技術や文明にも造詣が深く、諭吉の著作もよく読んでいて、彼に私淑していたとさえいってよいほどであった。」