戦後60年の8月15日に2005/08/15 08:39

 戦後60年の8月15日である。 半年ぐらい前だったろうか。 テレビのニュースに 見たことのある人が出ていて、さかんにしゃべっている。 自分の店にタクシーが飛び 込んだという東銀座の商店主。 私が育った品川中延で、ご近所に住んでいて、顔見知 りの人だった。 ところが、そのことを誰かに知らせたいと思っても、その人を知って いる人が身の回りにいない。 家内はかろうじて知っていた。 弟なら知っているが、 当時海外にいた。 母も、祖母も、父も、兄も、一番話したいと思う人は、もういない のである。 そう気がついて、あらためて、その事実をつきつけられた。

 昭和20(1945)年5月24日未明の渋谷、芝、荏原、目黒、大森、蒲田の各区が焼けた 大空襲の時、父は4歳の私をおぶい、8歳の兄の手を引き、母や祖母といっしょに、馬 込方面に逃げ「おおどぶ」と呼んでいた水路を通って立会川に降りて、水を頭からかぶ りながら一夜を過した。 家は焼けていなかった。 二軒先まで焼けていた。 その家 へは、洗濯物の入ったままの盥(たらい)まで持って行って、消火につとめた。 この家 の人は、その後ずっと、私たち焼けなかった家の者をうらめしそうにしていた。 この 二軒先の火災が、避難する前だったのか、避難から帰ってからか、わからない。 それ を確かめようにも、母も、祖母も、父も、兄も、もういないのだ。

 九想、荻原久さんが先日の「九想話」に、清水哲男さんの「増殖する俳句歳時記」か ら紹介していた句があった。 戦後60年のこの日、身に沁みる一句である。

   蚊柱や昔はみんな生きてゐた   吉田汀史