茶の湯とキリシタン、関係はあるのか?2014/02/20 06:32

 黒田官兵衛と荒木村重の出会いだが、司馬遼太郎さんの『播磨灘物語』では、 大河ドラマ『軍師 官兵衛』のように堺への道中で物盗りを蹴散らしてくれて堺 を案内してもらったのとは違う。 時期も少し遅れて天正3(1575)年、荒木 村重はもう摂津一円を平らげ摂津守になっている。 播州御着城の小寺藤兵衛 政職が、家老の官兵衛の意見をいれて、毛利でなく織田信長につくことにした。  その挨拶で官兵衛が岐阜へゆく途中、織田勢力下の村重にも会ってよしみを通 じておくことにして有岡城(伊丹城)を訪ねる。 播州の小大名の家老の来訪 に、村重は、一族でそれぞれ一城の主である、高山右近を途中まで出迎えさせ、 城門からは中川瀬兵衛(賤ヶ岳で戦死したが、その家系は豊後国の岡(竹田城) 七万四百四十石の大名になった)に案内させ、村重自身玄関まで出むいて待っ ているという、厚い心づかいをみせた。 それを官兵衛は十分な予備知識で、 茶が得意と聞いていた村重の、茶の心得での応接で、存外、彼が殺風景な男で はない証拠になるかもしれないと見た、と司馬遼太郎さんは書き、その背景を こう説明している。

 「この時代の武士のあいだで流行しているものは、茶の湯とキリシタンであ る。茶の湯は唐や朝鮮、あるいは南蛮といった海外の書画や道具を鑑賞するサ ロンを作法化したもので、海外へのあこがれという意味ではキリシタンへの傾 斜とやや共通しているであろう。それに茶の湯は主客だけしか立場がなく、こ の世の階級を超越した場をつくるということに妙味があるうえに、客をもてな すことの心づかいの高下(こうげ)を表現するという点で、接待を芸術化した ものといっていい。」

『播磨灘物語』の「あとがき」には、「官兵衛は若いころから、京都や堺がす きであった。この時代、海外貿易の商人は主としてこの両都に多く住んでいる。 かれらがもつ世界性といった気分が、この時代の茶道にまで濃厚に影響して得 意な美意識をつくりあげるのだが、若いころの官兵衛は茶道がきらいだった。 しかし茶道にまでおよんだ世界性のほうを好み、この時代の感受性の鋭敏な豪 族の子の多くがそうなったように、かれもクリスチャンになった。」とある。

 さすが司馬遼太郎さんだと、1973~75年に書かれた『播磨灘物語』をここ に引いたのは、2月3日の朝日新聞朝刊「文化の扉 歴史編」に、「千利休 キ リスト教徒だった? 茶の湯にみられるキリスト教との共通点」という記事(宮 代栄一編集委員)が出たからだ。 千利休が大成した茶の湯の作法に、キリス ト教の影響が色濃く投影されているという説があるというのだ。 利休の孫・ 宗旦の次男、一翁宗守を祖とする武者小路千家の14代家元である千宗守さん は約20年前から、「一つの茶碗の同じ飲み口から同じ茶を飲む『濃茶(こいち ゃ)』の作法は、カトリックの聖体拝領の儀式からヒントを得て、利休が創案し たと考えるのが自然」と主張してきたのだそうだ。 この飲み回しの作法が文 献に初めて登場するのは天正14(1586)年、翌年大阪城で開かれた茶会で、 秀吉が「一服ヲ三人ツヽニテノメヤ」というほどまで普及したという。

 千利休は天正元(1573)年、信長が京都で催した茶会で茶頭を務めている。 当時、日本でも有数の貿易都市だった堺では、キリスト教が盛んで、後に利休 七哲といわれた高弟の中にも、蒲生氏郷、高山右近、牧村兵部はキリスト教徒 で、細川忠興(三斎)、古田織部もそうだったとの説がある(残る二人は、芝山 監物、瀬田掃部)。 千宗守さんは、「ミサの際、イエスの血の象徴であるワイ ンを杯に入れて回し飲みする様子を見た利休が、場の一体感を高める目的から、 日本人にはなじみが薄かった飲み回しを茶の湯に取り込んだのではないか。茶 入れを拭く際の袱紗捌きや茶巾の扱い方なども、聖杯を拭くしぐさと酷似して いる。偶然とは考えにくい」と、言っているそうだ。