自由が丘の古書店主の話を聴く2014/02/27 06:37

自由が丘駅前の沢田政廣作「女神像」、「あをそら」の字は石井漠

 22日、ご近所の宮本三郎記念美術館で、開催中の「宮本三郎と奥沢の芸術家 たち」展(3月21日まで)関連の講演を聴いてきた。 自由が丘の古書店西村 文生堂の店主で、自由ヶ丘オフィシャルガイドブック編集長の西村康樹さんの 「自由ヶ丘モダニズムとその周辺」。 美術館があるのは、洋画家・宮本三郎が 1935年から亡くなる1974年までアトリエを構え、制作の拠点とした所で、こ の奥沢は、自由が丘や田園調布といった近隣地域を含め、多くの芸術家や作家 が居住した。 宮本三郎が、その自由が丘を舞台にした連載小説(「丘は花ざか り」)の挿絵を描いた小説家・石坂洋次郎、同じく連載小説の挿絵の仕事をした 石川達三、同世代の洋画家で、戦後「田園調布純粋美術研究所」を開設した猪 熊弦一郎、自由が丘の名付け親の一人で「自由ヶ丘石井漠舞踏研究所」を開い た舞踏家の石井漠など、宮本三郎は奥沢界隈のさまざまな人物と親交を結んで いた。

 西村康樹さんは、1970(昭和45)年生れで1948(昭和23)年創業の西村文 生堂の三代目、古書店は地域の文化、教養のレベルが高い町でないと成り立た ない、自由が丘はそういう町だという。 最近は、テレビ番組などで使われる ディスプレー用の洋書の仕事が増えているそうだ。 同じ色や革表紙の本など、 一つのものを蒐める癖があったのが役立っている。 昭和20年、それまで好 きなことが書けない時代を過ごした戦友二人が電報で、若者向けに自由なもの をつくろうと始めたのが、月刊『平凡』の凡人社(後に平凡出版、現・マガジ ンハウス)。 その初期の雑誌3000冊を蒐めていたので、それをベースにして 展覧会や社史の仕事に関わった。 当時の検閲には、三期があった。 戦前か らの検閲、GHQによる検閲(天皇についての書き方に甘い)、昭和27年から の検閲(天皇についての書き方にきつい)。 昭和20年~25年の雑誌は、国立 国会図書館でも蒐集が薄い、GHQの資料はメリーランド大学にある(馬場註・ このことについては江藤淳『閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』文 春文庫がある)。

 自由が丘では、昭和61(1986)年から『自由が丘ガイドブック』が発行さ れていて、最新版は27号になっている。 西村康樹さんは、30歳ぐらいから その編集に関わって、自由が丘文化関係の資料を蒐めるようになり、『自由が丘 商店街振興組合五十年史』の編集にも携わる。 そこから、「自由ヶ丘モダニズ ム」ともいうべきものが見えてきた。(つづく)