「会読」の討論から知的共同社会へ2014/12/18 06:45

 前田勉教授は、江戸時代の三つの読書方法、素読、講釈、会読の内、会読の 重要性を強調して、その説明をした。 会読とは、学力のある上級者が、「一室 に集って、所定の経典の、所定の章句を中心として、互いに問題を持ち出した り、意見を闘わせたりして、集団研究する共同学習の方式」(石川謙『学校の発 達』)。 会読(=読書会)は、伊藤仁斎、また荻生徂徠のもとで、儒学の学習 のために始まった。 それはすぐに広がり、私塾のみならず全国の藩校や昌平 坂学問所で、また儒学にとどまらず蘭学でも国学でも採用された。 各自の読 みをもとに議論を闘わせる会読は、身分制社会のなかではきわめて特異な、参 加者が対等な関係を結んで自由に競い合う場であり、他者を認め受け入れる試 みであり、自ら困難な課題を設定しては乗り越える、喜びに満ちた「遊び」の 空間でもあった。 「車座の討論会」(小田急電鉄の創始者、利光鶴松、大分県 の貧しい家の出で苦学した人『利光鶴松翁手記』)。 金沢明倫堂「入学生学的」 には、異説を許す、討論を勧める、記述がある。

 会読の三つの原理は、相互コミュニケーション性・対等性・結社性である。 第一の原理=相互コミュニケーション性。 上意下達のタテの人間関係のなか での「討論」の勧め(浜松藩、経誼館掲示。米沢藩、当直頭申合箇条追加規則)。 第二の原理=対等性。 「車座」は、対等性の象徴的な具現。 師弟間の対 等性。 「正味の実力」のみによって評価。 「門閥制度」の上下の身分制社 会のなかの異空間。 福沢が学んだ緒方洪庵の適塾も、オランダ語の実力の世 界だった。 第三の原理=結社性。 結社とは、規則を守る自発的な集団。 競争という 遊び(『ホモ・ルーデンス』)。 会読は日本独特の読書法。 競争が立身出世に つながる中国や朝鮮と違い、世襲身分制度の日本は、成果とは拘らずに、競争 が競争として、スポーツのゲームのように楽しむ。 物質的社会的な利益がな かったからこそ成立する逆説。

 幕府の昌平坂学問所は、寛政異学の禁に際し、(昌平黌から改称し林家に依存 した教育体制を改め、学校としての整備を進め)、1801年書生寮を設けた。 古 賀家三代(精里・侗庵・茶溪)の占める位置の大きさ。 書生寮の学生は48 人、延べ91藩から、「郷里で抜擢せられて出て来る人」、「当時の洋行の類」(『旧 事諮問録』)であり、書生寮は唯一公式に認められた官立の「洋行」先だった。

 佐賀藩と会津藩の遊学生は優秀だった。 江戸遊学は、名士たちと議論する ことが大きな目的であった。 「寮内でも申し合せて会読をして議論を闘はす を有益とし、優秀な学友の卓抜な議論は人を啓発する力が強いと信じて居た」 (『久米(邦武)博士九十年回顧録』上巻) 「諸藩間のこのように広範囲な学 生交流がもたらした一つの重要な効果はもちろん、全国的規模の知的共同社会 の形成を助けコミュニケーションの接点と経路を確立したことだった。コミュ ニケーションの確立は自覚的な民族意識の台頭を促し、また一旦政治的変動が 生じると、その変動が中央集権的国民国家の成立に向うのを確実化した」(ドー ア『江戸時代の教育』)

 書生寮には自由闊達な雰囲気があり、そこを管理していた学問所御儒者の古 賀侗庵(1788(天明8)~1847(弘化4)、古賀精里の三男)は、諸子百家に通 じた博覧強記の人で、ロシアへの危機意識など内に秘めた経世の志を持ち、大 槻玄沢ら蘭学者との交流もあった。 開国論を説いた『擬極論時事封事』(1809 年)『海防臆測』(1840年)などの海防論もある。