福沢諭吉と「忠臣蔵」2014/12/26 06:26

 20日、まったくの門外漢なのだが、文学部藤原茂樹研究室から毎年ご案内を いただくので、折口信夫・池田彌三郎記念講演会に出かけた。 三田の北館ホ ールが会場だが、少し時間があったので、慶應義塾図書館1階展示室の「忠臣 蔵」の企画展示を覗いた。 12月14日をはさんで、開催されていることを慶 應義塾のメールマガジンだったかで見ていたからだ。 慶應義塾図書館では、 とくに「忠臣蔵」の資料の収集に力を入れてきたわけではないのだが、改めて 探してみると、実に多種多様な資料が所蔵されていることに気付いたという。

 福沢諭吉は『学問のすゝめ』第六編に、こう書いた。 「昔徳川の時代に、 浅野の家来、主人の敵討とて、吉良上野介を殺したることあり。世にこれを赤 穂の義士と唱えり。大なる間違(まちがい)ならずや。この時日本の政府は徳 川なり、浅野内匠頭も吉良上野介も浅野家の家来も皆日本国民にて、政府の法 に従い、その保護を蒙(こうむ)るべしと約束したるものなり。然るに一朝の 間違にて上野介なる者、内匠頭へ無礼を加えしに、内匠頭これを政府に訴るこ とを知らず、怒(いかり)に乗じて私(わたくし)に上野介を切らんとして、 遂に双方の喧嘩と為りしかば、徳川政府の裁判にて内匠頭へ切腹を申付け、上 野介へは刑を加えず、この一条は実に不正なる裁判と云うべし。浅野家の家来 共この裁判を不正なりと思わば、何が故にこれを政府へ訴えざるや。四十七士 の面々申合せて各々(おのおの)の筋に由り、法に従て政府に訴出(うったえ い)でなば、固より暴政府のことゆえ最初はその訴訟を取上げず、或はその人 を捕(とらえ)てこれを殺すこともあるべしと雖(いえど)も、仮令(たと) い一人は殺さるゝもこれを恐れず、又代りて訴出で、随て殺され随て訴え、四 十七人の家来理を訴て命を失い尽すに至らば、如何なる悪政府にても遂には必 ずその理に伏し、上野介へも刑を加えて裁判を正うすることあるべし。斯(か) くありてこそ始て真の義士と称すべき筈なるに、嘗(かつ)てこの理を知らず。 身は国民の地位に居ながら、国法の重きを顧みずして妄(みだり)に上野介を 殺したるは、国民の職分を誤り、政府の権を犯して、私に人の罪を裁決したる ものと云うべし。幸いにしてその時徳川の政府にて、この乱妨(暴)人を刑に 処したればこそ無事に治りたれども、若しもこれを免(ゆる)すことあらば、 吉良家の一族、又敵討とて赤穂の家来を殺すことは必定(ひつじょう)なり。 然るときはこの家来の一族、又敵討とて吉良の一族を攻るならん。敵討と敵討 とにて、はてしもあらず、遂に相(双)方の一族、朋友、死し尽るに至らざれ ば止まず。所謂無政無法の世の中とはこの事なるべし。私裁の国を害すること 斯(かく)の如し。謹まざるべからざるなり。」