異質な他者を認め合う「会読」2014/12/19 06:34

 昌平坂学問所の書生寮で学んだ学生が、各地の藩校の教授となって、会読を 広めていった。 会読は、異質な他者を認め合う態度と精神、すなわち「虚心」 を育成する場であった。 そこは治者の徳を養う「心術練磨の工夫」もする、 心を修養する場でもあった。

 政治的議論は積極的に容認され、安井息軒の「三計塾」は「政治家の養成所 だ」(『安井息軒先生伝』)とあり、谷干城(たてき)の体験によれば自主ゼミ的 な六七人の「内会」では「専ら相互に討論会議するを奨励」して、「生徒をして 互いに自己の智力を戦」わしめた(『谷干城遺稿』巻1)。 そこには幕末の政 治的季節における新たな思想的可能性が生まれた。 みな縁を離れて論じるア ジール(避難所)(網野善彦が『無縁・公界・楽』(平凡社・1987年)で説いた 日本中世社会の「無縁」は、主従関係・親族関係などの世俗の「縁」と切れた 平等・対等な自由な空間)。

『福翁自伝』の適塾での体験。 「勿論議論はする、いろいろの事に就て互 に論じ合ふと云ふことはあつても、決して喧嘩をするやうな事は絶えてない」、 「仮令ひ議論をすればとて面白い議論のみをして」、「敵に為り味方に為り、散々 論じて勝ちたり負けたりするのが面白いと云ふ位な、毒のない議論は毎度大声 で遣って居た」。 競技としての遊び(ホイジンガ)。

学問所儒者中村敬宇は、J・S・ミルの『自由論』を翻訳した。 「縁を離れ て論じ」合った会読のなかで培われた敬宇の「体験としての公論意識」(源了圓) が、異質な他者を受け容れるミルの態度・精神、寛容の精神と一致した。 

古賀侗庵の弟子阪谷素(しろし、1822(文政5)~1881(明治14))は明六 社同人の漢学者。 明治7年10月『明六雑誌』19号の「尊異説」で、西洋諸 国が発展してきたのも、政教風習、属官の議、庶民の説などを異にしても、互 いに切磋琢磨して、公平至当の処置を開き、国家の輝光を発揚してきたからだ として、「異」なるもの同士の対立は避けるべきでなく、むしろそうした「異」 なるものを拒否する考えこそが「野蛮」だとした。

こうした「リベラルな知的思考」(松本三之介「新しい学問の形成と知識人― 阪谷素・中村敬宇・福沢諭吉を中心に―」)に接近することができた阪谷素にせ よ、中村敬宇や福沢諭吉にせよ、漢学塾か蘭学塾で会読経験を経ていたことを 想起すべきだろう。 そして何より、会読の経験で培った「虚心」は、公開で 議論・討論する「生活様式の民主主義の徳」(J・ガウアンロック『公開討議と 社会的知性』)だったのである。

会読の経験とそこで培われた精神こそ、読書会という枠を超えて、幕末の横 議横行する志士たちを、明治初年、民権運動の学習結社を、近代国家を成り立 たせる政治的な公共性を準備するものとなりえた、と前田勉さんは言う。