明治半ば「会読」が捨てられた事情2014/12/21 07:07

前田勉教授の土曜セミナー「江戸の読書会の思想的な可能性―昌平坂学問所 と福沢諭吉―」だけれど、質疑応答でも触れられたが、疑問の点があった。 一 つは、科挙=高級官僚採用試験がある中国・朝鮮では、個人の勉強が中心で「会 読」がなかったということについて。 もう一つは、江戸時代の日本では中国・ 朝鮮のような立身出世のための学問=読書ではないため、「会読」が可能になっ たが、日本でも明治以降立身出世のための学問になると、それがなくなった、 と話されたことだった。

 質疑応答で、前者については、中国・朝鮮で「会読」がなかったことについ て、明確な根拠が示されなかったようだった。 後者について、私は話を聴き ながら、福沢の『学問のすゝめ』の影響もあるかな、と思った。

 前田勉さんの、『江戸の読書会―会読の思想史』(平凡社)を見てみる。 前 者の記述は見当たらないが、後者については、最終章が「会読の終焉」になっ ている。 明治初期は、会読全盛の時代で、明治10年代は、会読はごくあり ふれた読書方法であった。 それが自由民権運動の「学習熱の時代」のなかで、 「五日市憲法草案」の作成過程などで、重要な役割を果たした。

 明治5(1872)年「学制」発布時点では、福沢の『学問のすゝめ』の影響も あって、たしかに儒学や国学のような「実なき学問」は批判されたが、会読= 輪講という学び方は否定されてはいなかった。 それを小学校で指導する教師 は、官吏とともに廃藩置県後に俸禄を失った武士の人気就職先だったから、輪 講が成り立ち得る状況にもあった。

 しかし「学制」のプランは、そのすべてが実現されたわけではなかった。 全 国各地で反対の騒動が起った。 反対の最大の理由は、学校設立維持の経費や 授業料などの教育費の受益者負担にあったが、教育内容と方法に関するものも あった。 端的には、小学校で輪講を行うことが難し過ぎるということがあっ た。 さらに、文明開化のもとで西欧教授法を摂取したため、生徒間で討論し ながら学び合う輪講は、捨てられてゆく。 その大きな契機となったのは、師 範学校の教授法の導入だった。 小学校教員を養成する官立師範学校は、明治 5(1872)年5月に東京に創設され、各地に広がる。 この「教授法ヲ教授ス ル」師範学校の開設は、会読の存続問題に大きな意味を持っていた。 アメリ カ式の一斉教授方法が導入された。

 「学制」冒頭に、学問は「身ヲ立ルノ財本」だと掲げられ、学問が個人の立 身出世の実利的な目的のための手段となった時、会読の遊びの性格はなくなっ たといえる。 学問が立身出世と結びついたことは、明治政府の圧力と表裏一 体だった。 文部省の高官、九鬼隆一は明治10(1877)年関西を巡回視察し た報告書で、「討論」が修身=道徳教育には役立たないとした。 修身道徳復活 の動向のなかで、儒学が再評価されるだけでなく、会読(輪講)よりも前段階 の素読的な暗誦の注入主義が取り上げられることになってゆく。 明治政府の 立場からすれば、「討論」する会読(輪講)の学習方法は、過激な「政談」をも たらすものである。

 前田勉教授は、江戸時代にこうした自発的な会読会が開かれていたことが一 般に知られていないのは、「会読を葬った明治政府の教育・政治政策の力が大き かったのか、それとももっと奥深くにある、歴史を伝統化せず、絶えず新しい もの(しかも、決まって外からくるもの)に飛びつく、日本人の悪弊なのか。」 と、書いている。