鯉昇の「芝浜」前半2014/12/29 06:37

 しばらくの沈黙の後、鯉昇はこう始めた。 同窓会の会場で友達の年齢を聞 いている奴が出たのが、二、三年前。 思い出の校歌を歌ったのだけれど、み んな二番からはハミングになった。 私も今日、後半はハミングになるかもし れない。 小学・中学の後輩にノーベル物理学賞の天野浩さんがいて、実家が 二、三分の所にあるが、「天野君」というような間柄ではなく、会ったことはな い。 従兄弟が同級生、小学校時代から天野君は変わり者だったそうで、授業 中に起きていたという。 私の頃は、授業中、みんな寝たり、起きたりで、病 院に近かった。 担任が朝、脈を取る。 天野浩さんの話だと、楽しんで学問 をやってきたという。 そういう人が、天下を取る。 商いもそうで、江戸っ 子には腕自慢がいて、その気になれば、すぐに家の一軒や二軒は建つという。  ただ、その気にならないところが、問題だ。

 「お前さん、起きておくれよ」 邪険な起し方しやがって。 明日から商い に行くから、今晩たらふく飲ませてくれと言ったんじゃないか。 こんだけ休 んじまったんだから、ほかの魚屋が入ってる、駄目だよ、腕じゃ負けないが。  飯台は、糸底に水が張ってある、包丁は、ちゃんと研いで、蕎麦殻ンの中へつ っ込んであるから、獲れ立ての秋刀魚みたいにピカピカ、草鞋は、出てます、 少しだけど仕入れの銭も。

 おー、やけに寒いな、吠えるな、横丁の赤犬に面忘れられるほどだったか。  増上寺さんの鐘だ、いい響きだな。 河岸の店が閉まってる、カカア、時を間 違えやがった。 飯台逆さに置いて一服するか。 潮の香り、たまらねえな、 魚屋やめられない。 帆掛舟だ、早起きして稼いでいる奴がいる。 お天道様、 勝五郎でございます、よろしくお願いいたします。 柏手、三つ。 波も休ま ないで寄せて来る、どこかで、でけえ桶で描き回している奴がいるのかもしれ ねえ。 真田紐がゆらゆら、財布(せえふ)じゃねえか、目方がある。

どんどん、おっかあ、俺だ、開けろ。 誰も、追っかけて来ないか、しんば り棒をかえ。 二分銀がぎっしり詰まっている。 ヒトエヒトエフタエフタエ、 四十二両あるじゃねえか。 どうするの。 海の中にある物は、魚屋の物と、 昔から決まっている。 お前も、帯でも何でも、誂えな。 長屋の奴を呼んで 来い。 なに、飲み残しの酒がある、なさけねえ酒飲みになったな。 注げよ。  つまむものはないか。 鯊の佃煮。 うめえ酒だぜ、酒は米の水と言ってな。  ゆんべの酒なんぞ、気詰りで、うまくもなんともなかった。 この辺で(と、 胃のあたりを差し)一緒になって、暴れてらあ。 寝るから、昼過ぎに起せよ。

「お前さん、起きておくれよ」 邪険な起し方しやがって。 商いに行って おくれよ、釜の蓋が開かないよ。 昨日のあれで、釜の蓋開けとけよ。 昨日 の何を? 悪い夢、見たんだよ。 夢かな。 夢、だよ。

なさけねえ、貧乏ばかりしていると、そんな夢を見るようになっていたのか。  熊さん、寅さんたちを連れて来て、お刺身だ、天婦羅だって、と一人はしゃい でいた、卓袱台の脚が折れたの、憶えているだろう。 私は浴衣がけなんだよ、 冬なのに、どこにそんなお足があるんだよ。 財布を拾って来たのは夢で、飲 み食いしたのは本当かい。 そうだ、横丁の赤犬が吠えてきたんだ。 あの赤 犬は、のべつ吠えているよ。 お天道様は? 毎日出る。 増上寺さんの鐘は?  毎日鳴っている。 俺はガキの時分から、やけに、はっきりした夢を見るんだ よ。 おっかあ、俺は駄目だな、死んじゃおう。 なにをいってんだよ、お前 さん、しっかりしておくれよ、一生懸命働けば、何とかなる。 こんなもの、 私が四、五日で、何とかするよ。 おっかあ、助けてくれ、酒がいけないんだ、 俺、酒やめて、これから商いに行くよ。