「福澤語」の「怨望」と社交、自由・寛容 ― 2015/01/17 06:37
「怨望(えんぼう)」は、『学問のすゝめ』十三編「怨望の人間(じんかん) に害あるを論ず」(明治7(1874)年)で、「凡そ人間に不徳の箇条多しと雖(い えど)も、その交際に害あるものは怨望より大なるものはなし」とした。 人 間(じんかん)とは、世の中、ソサィエティー(福沢先生は「人間交際」と訳 した)のこと。 「怨望は働きの陰なるものにて、進んで取ることなく、他の 有様に由って我に不平を抱き、我を顧みずして他人を損ずるにあり。」「(怨望の) 輩の不幸を満足せしむれば、世上一般の幸福をば損ずるのみにて少しも益する ところあるべからず。」 うらめしく思って、他人の足を引っ張る。 「蟹バケ ツ」と言う言葉があるが、互いに足を引っ張り合って、一匹も外に出られない。 自分より上にいる人間を、ひたすらおとしめる。 果ては、暗殺、反乱まで起 こし得る(不平士族のそれを、怖れ、警戒した)。 吝嗇(ケチ)や悪口などの 不徳は、ほどほどのものだと美徳に転じる場合もあるが、怨望だけは駄目で、 そうなることはない。
小泉仰(たかし)教授は、福沢先生の「怨望」はenvyの翻訳だとした。 福 沢先生の説明は、ウェブスターの辞書の説明と同じ。 J・S・ミルの『自由論』 は、envyを反社会的で嫌悪すべき気質、寛容の対象外とした。 それは性質だ から、法律によってでなく、周りの人の説得で改善すべきだ、と。
福沢先生は、「怨望」の一例として、徳川時代の大名の御殿女中を挙げる。 「無 識無学の婦女子群居して無知無徳の一主人に仕え」「ただ朝夕臨機応変にて主人 の寵愛を僥倖するのみ」「朋輩を嫉み主人を怨望するに忙しければ、何ぞ御家の 御ためを思うに遑(いとま)あらん。」 互いの批判ばかりしていて、役に立た ない。 「怨望嫉妬の極度に至っては、毒害の沙汰も稀にはなきに非(あら) ず。」
徳川社会には、権力の偏重があって、individuality「独一個人の気象」は少 ない(圧迫されていた)。 自由な社会を、封じ込めていた。 これが福沢先生 の「怨望論」に重なる。 「怨望論」は、福沢先生の政治的危機感の表れで、 明治7(1874)年は、民撰議院設立建白書、佐賀の乱など、旧士族の政治にお ける不満が高まっていた。 それが拡大すれば、徳川末期と同じ混乱が起きる と、心配した。
その解決策として、福沢先生は人の言論を自由にして、自由な活動を奨励し、 社会のコミュニケーションを活発にすること、社交を活発にして、直接話し合 うことを説いた。 異なる意見を尊重する堪忍の心、つまり寛容の精神を養う こと、それは国会開設への道につながる。 (つづく)
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