「福澤語」の「公徳」と多事争論2015/01/18 08:15

 「公徳」とは何か。 文部科学省のホームページに「公徳心」というのがあ って、ゴミのポイ捨てや電車で席を譲るか、などを挙げている。 ちょっと違 和感がある。 「公徳」は、福沢先生自身による造語で、『文明論之概略』第六 章「智徳の弁」にある。 「又此徳義にも智恵にも各二様の別ありて、第一貞 実、潔白、謙遜、律儀等の如き一心の内に属するものを私徳と云ひ、第二廉恥、 公平、正中、勇強等の如き外物に接して人間の交際上に見(あら)はるゝ所の 働きを公徳と名(なづ)く。」 文明は、人間の智徳が、両方あいまって、進歩 することだとした。 これは福沢先生のエッセンスで、『文明論之概略』でも一 番長い章である。 政府が徳を広めるのは、危険なことだとする。 明治政府 には、神道のグループ、儒教グループ、洋学者のキリスト教のグループなどが あった。 福沢先生は、政府が心を一つにしようとするような動きを批判した、 それは私徳だと…。 福沢先生が、徳を公徳と私徳に分けるのは、異様で、独 特だ。 J・S・ミルのsocial virtueによったのだろうが…。 だが、人と人と の交際の中で、何を「公徳」とするのかわからない。 徳目として挙げること に、成功しなかった。 その点は、不適切であった。 『文明論之概略』の本、 全体が「公徳」を表わしている。 「公徳」は、前近代に用例はなく、今の所 (新発見が出なければ)、『文明論之概略』第六章で福沢先生がつくった言葉と 言える。

 『文明論之概略』第八章「西洋文明の由来」に、「西洋の文明の他に異なる所 は、人間の交際に於て其説一様ならず、諸説互に並立して互に和することなき の一事に在り」とある。 この多事争論をかかえる気風こそが、「公徳」。 集 議(衆議)の習慣が、西洋諸国にはある。 日本では、それが乏しい。 政府 は、議会にいろいろな人の知恵を集める。 文明社会の本質は、異説争論、集 議の場を、社会のあらゆる場につくることだ。 多事争論、自由と寛容に支え られる社会だ。 それが一般社会をつくる。 福沢先生の、このメッセージは、 現代にも伝えられている。  (私は、この苅部直さんの話を聴きながら、しきりにフランスで起った新聞社襲撃事件のことを思っていた。)