「防衛拠点としての沖縄」という道のり2015/01/21 06:40

 [2]『クロスロード・オキナワ』によって、日中「国境」に翻弄される琉球 を、少しくわしく見てみたい。 欧米流の近代国家を目指した明治新政府の政 策は、当然、アジア地域の秩序となってきた中国の「冊封体制」に真っ向から 挑戦するものとなった。 その日本の論理は、欧米列強間での「万国公法(国 際法)」を基準にする秩序だった。 それによれば、近代国家の概念上、明確に すべきもののひとつが「国境」である。 当初、明治政府は中国(清)との争 いを避けるため、廃藩置県の折も、琉球のみを鹿児島県の管轄下に置き、「藩」 として残し、琉球の為政者を「県知事」にせず、「藩王」とした。

 琉球をめぐる日中の駆け引きが大きく動き出したのは、明治7(1874)年の 台湾出兵だった。 出兵の理由は、3年前に起こった琉球船の台湾での遭難事 件で、台風で漂着した乗組の「琉球人」54人が地元民に殺害された。 明治政 府は「琉球人」は「日本人」であり、「台湾人」の犯罪は清が責任をとるべきだ と抗議したが、清は、台湾は「化外の地」であって管轄外だと反論した。 最 終的に、この事件はイギリスの調停により、清が賠償金を支払うことで決着す る。 それを定めた条文で、琉球人を「日本国属民」と表現することを清が認 めたことにより、日本は、琉球を自国領土に確定するための次の段階に進んで ゆくのである。

 明治政府は、台湾出兵の翌年、昨日見たように松田道之を派遣し、琉球に種々 の要求をつきつける。 大日本帝国陸軍の熊本鎮台分営隊の支営(軍事施設) を琉球に設置するという要求に対する回答には、こうある。 「琉球は、(中略) 従来寸兵を応対備へず、礼儀を以て維持の道を立、外国船来航の節も全く口舌 而巳を以て応対し、今日まで無異に治り来り候。新に兵営を御設立相成候はば 夫丈外国より手強く押掛り却て困難を生じ可申。」 ――他国に対して、対話に よる礼節によって、国を存続してきた。 外国船来航にも、力に頼った対応な どせず、もっぱら、言葉(対話)によってのみ応対し、今日まで無事に過して きた。 兵営を設置すれば、それだけ外国からも強硬手段に訴える圧力が増し、 困難な状況になってしまう。 と、琉球独自の「安全保障」のあり方を、訴え ている。

 これを、明治政府の琉球処分官となった松田道之は、「琉球をひとつの独立国 とみなして、独力で他国にあたる責任を持つと言っているかのような論である。 琉球の防衛は琉球だけの問題ではない。日本全国の問題として防衛にあたるの だ」と退けた。 琉球は日本全土にとっての防衛拠点であるという認識が、こ の頃から前面に押し出されてくる。 日本近代化における国境確定という歴史 の交差線上に、「防衛拠点としての沖縄」という道のりが始まるのである。

 日清間の「琉球」帰属問題は、明治12(1879)年アメリカ大統領を退任し たばかりのユリシーズ・グラントが仲介に乗り出し、琉球を分割する案で実現 寸前まで行く。 日本案は、宮古・八重山諸島を切り離して清の領土とする代 りに、日本の商人が中国大陸で欧米諸国並みの自由な商業活動が出来るという ものだった。 しかし、清の国内市場混乱への危惧と、故国が二分割占領され ることへの「琉球」の人々の粘り強い反対運動によって、実現しなかった。 日 清間の沖縄帰属問題の「解決」は、日清戦争の戦後処理まで待つことになる。