幕府に白旗を渡していた砲艦外交2015/02/05 06:34

 松陰がペリーの黒船に密航を図った前年、嘉永6年6月3日(1853年7月8 日)のペリー艦隊の来航で、鎖国(例外はあったが)をしてきた泰平日本は大 騒ぎとなった。 「泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった四はいで夜も 眠れず」という落首はよく知られている。 すぐ浦賀に駆け付けて黒船を見た 佐久間象山は、そこに集る日本の舟を「大盥(たらい)の下に蛤(はまぐり) 貝」と形容した。 旗艦サスケハナ号は2450トン、五百石以上の大船の建造 を原則禁じていた日本では、千石船でも100トンほどだったからだ。 11月 27日に亡くなった松本健一さんは、『白旗伝説』(講談社学術文庫)で、ペリー 艦隊は幕府側に白旗2旒とその添え書を渡したのは、翌6月4日のことだった と推定している。 ペリー側は、大統領からの「開国と通商」を要求する国書 を幕府に届けるためには、武力をもって江戸へ上陸してでもするつもりであり、 そうして戦争になった場合、もし「和睦」を申し出る用向きならば、万国公法 の戦争のルールにおける降伏のメッセージである「白旗を掲げて」来るように と、添え書で教えていた。

 ペリー艦隊は、6月6日にはミシシッピ号を護衛につけた測量隊を、浦賀か ら江戸湾深くに進入させた。 江戸湾内の水路と水深を調べ、上陸地を策定す るためのもので、つまり戦争目的である。 品川沖では、幕府を威嚇する号砲 を放った。 強力な軍艦を率いて、次第に江戸に近づく勢いを見せる、砲艦外 交上の効果を狙ったものだった。

 福沢は『文明論之概略』第十章「自国の独立を論ず」に、その時のことを、 小幡篤次郎が『民間雑誌』第八編に載せた文を引いて、こう書いている。 「米 国の我国に通信を開くや、水師提督「ペルリ」をして一隊の軍艦を率ひて我内 海に驀入(ばくにゅう)せしめ、我に強るに通信交易の事を以てし、而して其 口実とする所は、同じく天を戴き同じく地を踏て共に是れ四海の兄弟なり、然 るに独り人を拒絶して相容れざるものは天の罪人なれば、仮令ひ之と戦ふも通 信貿易を開かざる可らずとの趣意なり。何ぞ其言の美にして其事の醜なるや。 言行齟齬するの甚しきものと云ふ可し。此際の形容を除て其事実のみを直言す れば、我と商売せざる者は之を殺すと云ふに過ぎず。」

 この砲艦外交に、老中首座の阿部正弘ら幕閣は、アメリカ大統領の国書を受 け取ることにし、翌年また来ると去ったペリー艦隊と、嘉永7(1854)年3月 日米和親条約を締結することになるのである。

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