『福翁自伝』は文学か〔昔、書いた福沢20〕 ― 2015/03/06 06:34
等々力短信 第322号 1984(昭和59)年5月25日
『福翁自伝』は文学か
『福翁自伝』が、日本文学史の上で全く黙殺されている、という平川祐弘氏 の主張について、少し考えてみたい。 まず、ふつう「文学」というと、『福翁 自伝』のようなものは入れないのではないか、という疑問がある。 念のため に、『広辞苑』をひくと、「(1)学問。学芸。詩文に関する学術。(2)(literature) 情緒、思想を想像の力を借り、言語または文字によって表現した芸術作品。即 ち詩歌・小説・物語・戯曲・評論・随筆など。文芸。」とある。 平川氏が『新 潮』2月号の98ページに列挙して非難した、『福翁自伝』をぬかして「日本文 学史」を書いた諸先生も、常識的な「文学」の範囲で、文芸作品を対象にして、 その歴史を書いたのだとすると、非難されて、ちょっと気の毒な感じがする。
平川氏は、「中村光夫氏の『日本の近代小説』(岩波書店、昭和29年)は福 沢諭吉への言及で始る珍しい書物だが、しかしそれは福沢が西洋の「文明」の 中で「文学」を理解していなかった、という非難を述べるためであった。」と、 書いている。 中村光夫氏のために、弁明すれば、昭和54年の4月から9月 にかけて、NHK教育テレビで放送された大学講座「日本の近代化と文学」で、 中村氏は「我国の近代文学者のうち、最初に彼(福沢諭吉)を論ずるのは、奇 異でもあり、不当とも思われるかも知れません。しかし彼は、我国の文学近代 化の根底である社会の近代化のために、全力をあげてつくした人であり、彼が いなかったら、彼の著作があれほど多くの人々に読まれ、彼らを納得させなか ったら、我国の近代化は、筋書のない芝居のように支離滅裂なものになり、こ とに初期の間は失敗の連続に終ったでしょう」と言い、この講義の約三分の一 を福沢諭吉にさいている。
文学史の上で、最初の言文一致の試みというと、明治20年の二葉亭四迷『浮 雲』と山田美妙『武蔵野』があげられるが、先年亡くなった池田弥三郎氏によ れば、「福沢全集緒言」のなかの『会議弁』の解題で福沢自身が述べている、早 くも明治7年6月、口で言う通りを書いて、印刷物にしてみた言文一致の実践 に注目する必要がある。(昭和49年福沢諭吉年鑑1所収「日本語の近代化と福 沢諭吉」) 池田氏も書いているように、この言文一致の願いが存分に果たされ たのが、晩年の『福翁自伝』であり、これを明治文学史上の著作とみるかどう かによって、明治文学史が言文一致の傑作を持つか持たぬか、分かれるのだ。
複眼で見る〔昔、書いた福沢21〕 ― 2015/03/07 06:33
等々力短信 第343号 1984(昭和59)年12月25日
複眼で見る
『三田評論』11月号の座談会「近代日本と福沢諭吉」がとても面白い。 と くに「福沢いかれ派」を自称する丸山眞男さん(東大名誉教授)の発言に教え られることが多かった。 最近流行の福沢諭吉論は「脱亜論」をひきあいに出 し、近代日本は福沢の引いた脱亜入欧の路線を歩んだとするものだ。 丸山さ んは、まずこれにガツンと一撃、「「脱亜」という言葉は時事新報のある日の社 説の題目に一度つかっただけですし、「入欧」という言葉は福沢はつかっていな い」と指摘する。
そして丸山さんは、すくなくとも、「脱亜論」(明治18年3月16日)の頃の 歴史的状況を、頭に入れてから議論すべきだと言う。 「つまり日本が一足早 く、ともかくどうやらやっと統一国家をつくりあげたばかりのときに、すぐ隣 の大陸では、アンシャン・レジームが音を立てて崩れつつあり、そこにヨーロ ッパ帝国主義が殺到して来る」、そういう歴史的状況下で、日本の独立を確保す るために、福沢たちの選択できるどんな道があったかを、再考三考してほしい、 と言うのだ。 「福沢は近代国家というものを、一方では弱肉強食のパワーポ リティックス、他方では『天然の自由民権論』という二元性でとらえていて、 前者を権道といい、後者を正道とする複眼を最後まですてていない。 ですか ら、前者の面から東洋経略論を押し出すときには、日本も獣の仲間に入って獣 類として行動するんだ、と言い切っています。(中略)大義名分なんて国際間の 戦争にはそもそもないんだ、というわけです」。
新一万円札発行の頃、「脱亜論」という言葉だけをとらえて、「アジアを蔑視 した福沢諭吉をなぜ使うのか」という趣旨の投書が朝日新聞に出た。 この投 書は、福沢諭吉というひとりの人物を論じる場合でも、その複雑な全体像のな かから、一部分だけ抽出して、論ずることが、どんなに危険なことかを、明ら かに語っている。 われわれはどうも、保守か革新か、黒か白か、その立場を はっきりさせてしまうと、それにこりかたまって、広い視野で物を見ることが できなくなる傾向がある。 「理想」をかかげるとともに、「現実」もまた的確 にその視野のなかにとらえておく、福沢諭吉流の「複眼」が、昭和60年を迎 える今、ますます求められているのではなかろうか。
山田洋次監督の『小さいおうち』 ― 2015/03/08 07:07
1日テレビ朝日で放映された山田洋次監督の『小さいおうち』を見た。 中 島京子さんの原作は2010年に直木賞を取ったあとに読んだ。 中島京子さん の本は『イトウの恋』(講談社・2005年)や『女中譚』(朝日新聞出版)も読ん で、このブログの下記に書いていた。
中島京子著『イトウの恋』を読む<小人閑居日記 2010. 8.15.>
イトウの手記、発端<小人閑居日記 2010. 8.16.>
好きな女ができたなら、とDは言った<小人閑居日記 2010. 8.17.>
『小さいおうち』、明るい「戦前」<小人閑居日記 2010. 9.27.>
「ある種の頭の良さ」を持った女中<小人閑居日記 2010. 9.28.>
「誰もがあの人を好きになる」<小人閑居日記 2010. 9.29.>
『女中譚』「ヒモの手紙」<小人閑居日記 2010. 9.30.>
女中すみの「戒厳令の夜」<小人閑居日記 2010. 10.1.>
原作を読んで、私はこう書いている。 「タキさんが、目のぱっちりした、 お嬢様のように若々しくて美しい時子奥様のところに奉公したのは、奥様が22 になったばかり、自分は八歳下の14歳の時だった。 だから、あれから二人 はずいぶん、濃い時間をいっしょに過ごした。 タキさんが奉公したその年、 旦那様の予期せぬ事故死で、奥様が恭一ぼっちゃんを連れていったん実家に帰 った時も、翌年暮に平井家に子連れで再縁した時も、タキさんはついていった から、いっしょにお嫁にいったようなものだった。 再婚から三年目、タキさんが17歳の時、赤い三角屋根の二階建て文化住宅 は建った。」
そこで山田洋次監督の映画『小さいおうち』である。 時子奥様は、松たか 子、タキさんはベルリン国際映画祭で最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞した黒木 華(はる)、その晩年を倍賞千恵子が演じた。 映画では、上に引いたタキさん もずっと一緒だった子連れ再婚の事情が描かれない。 したがって、原作で強 く感じたタキさんの、時子奥様と恭一ぼっちゃんへの思い、「奥様、わたし、一 生、この家を守ってまいります」と言った女中としての職業意識や誇りが、少々 伝わりにくかったのではないか、と思われた。 原作のタキさんは、人様のた めに働く仕事をする人に大事な職業的能力「ある種の頭の良さ」(最初に奉公し た小中先生の言)を持ち、出入りの商人に対する女中の基本は「気は心」だと 承知し、工夫上手で、見えないところにも手を抜かないのだった。(つづく)
原作と映画『小さいおうち』あれこれ ― 2015/03/09 06:32
というわけで、映画『小さいおうち』は、東京山の手の中流家庭、モダンな 赤い屋根の平井家の回想から動き出す。 原作では「西郊」となっていたので、 中央線沿線かと思っていたが、映画の手紙の住所は「雪ヶ谷」だった。 山田 洋次監督は、「雪ヶ谷」がお好きなのか、『おとうと』(2010年)で笑福亭釣瓶 の姉・吉永小百合の薬局も「雪ヶ谷」だったように憶えている。 赤い屋根の 平井家へは、坂を登って人がやってくる。 そのシーンの繰り返しは、先日観 た『繕い裁つ人』を撮った三島有紀子監督に影響を与えた可能性がある。 「雪 ヶ谷」に、あんな坂があるのかは知らない。 多摩川沿いの国分寺崖線(ハケ) の末端付近で、田園調布にはあるから、あるのかもしれない。
映画で一番ひっかかったのは、時子奥様の夫・平井(片岡孝太郎)が常務を 務める玩具会社の若いデザイナー板倉正治を演った吉岡秀隆である。 寅さん 映画の満男役以来、山田洋次監督作品の常連だが、松たか子の時子奥様が、心 を奪われる相手としては、イマイチだと思った。 もっとかっこいい若手はい なかったのだろうか。
その点、片岡孝太郎が、パッとしない夫役を、好演していたと、言えそうだ。 この夫、原作では、つぎのように描かれる。 「タキさんは、奥様とぼっちゃ んが、鎌倉の社長さんの別荘に滞在した二週間の間、旦那様の世話をして気づ く。 旦那様からは、男の人の匂いがしなかった。 旦那様はタキさんを、一 度も変な目でごらんになったことがない。」 タキさんは、たしか平井夫妻が今 の言葉でセックスレスではないかと推測するのだったが、それが奥様が板倉に 惹かれる微妙な伏線と、作品の陰翳になっている。 後にタキさんは、小さい おうちが空襲で焼け、夫妻が防空壕で抱き合って死んでいた話を聞く。
タキさんの「心覚えの記」を読んだ大甥・健史(妻夫木聡)が、戦前がそん なに明るい時代だったはずがないと非難する問題については、『小さいおうち』、 明るい「戦前」<小人閑居日記 2010. 9.27.>に書いたので、興味のある方に は読んでいただきたい。 映画ではよくわからなかったが、原作でタキさんは 戦後、両親を亡くした甥の親代わりとなり、その一家と茨城で暮らした。 健 史は甥の次男だった。
志の春の「天災」 ― 2015/03/10 06:37
6日は、第560回の落語研究会だった。
「天災」 立川 志の春
「突落し」 桃月庵 白酒
「雁風呂」 柳家 小満ん
仲入
「雛鍔」 林家 正蔵
「徂徠豆腐」 入船亭 扇辰
「待ってました、志の春さーーん」と、黄色い声がかかった。 それも二三 人。 イェール大学卒で三井物産にいた志の春の転職事情は、当日記の「立川 志の春、三井物産を辞め、志の輔に入門<小人閑居日記 2014.5.26.>」を参 照のこと。 落語研究会は初登場、ドキドキだと言う。 最近要職にある方で 気の短い方がいて「日教組!」とヤジったりする。 今日のお客様も、年輩の 要職にあるような方々ばかりなので、私の噺がお気に召すかどうか…。
離縁状を二本書いてもらいたい、と岩田のご隠居のところに、八五郎がやっ て来る。 二本? かみさんとババア。 あのババア、ウチにずっといるんだ。 とんでもないことをいう、産んでくれた親だろう。 とんだ濡れ衣だ、三年前 死んだ親父の連れ合いだ。 心学の先生に手紙を書いてやるから、話を聞いて きな、長谷川町三光新道の紅羅坊名丸先生だ、いい心持になる。
まっぴらごめんねえ。 誰か、ピラピラ言っているな。 サムゲタンナムル ってのは、お前さんか。 日本人でございます。 耳でなく、腹で聞いて下さ い、耳は取次の下男下女という。 あなたはタンキだそうですな。 人間だよ。 喧嘩がお好きだそうで。 三度の飯より好きだ。 喧嘩はどちらも損するもの だ。 白黒をつけたいから、やるんだ。 気に入らぬ風もあろうに柳かな。 柳 をごらんなさい、風にさからわぬ、あのようにしなやかに生きていただきたい。 堪忍のなる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍……、堪忍の袋を常に首に かけ、やぶれたら縫え、やぶれたら縫え。
わかりやすい話をしましょう。 あなたが道を歩いていたら、小僧さんが水 を撒いていて、その水がかかった、粗相だけれど、どうなさる? 張り倒す、 店にねじこむ。 風の強い日に、屋根から瓦が落ちて来て、当ったらどうなさ る? その店にねじこんで、膏薬代をふんだくるね、空きだななら、誰か越し て来るまで待つ。 広い原の中、夕立ちにあって、全身濡れ鼠になったら、ど うなさる? 考えやがったな、この逆ボタル。 広い原の中だ、駆けこむ居酒 屋も、一本の木もない。 しょうがない、天から降った雨と思って、あきらめ る。 そう、小僧のかけた水も、落ちて来た瓦も、そこを通ったのを、天災と 思って、あきらめればいい。 みんな、天のせいにしちまえって、言うんだな、 俺が誰かをなぐっても、犬が下駄の片っぽをくわえていっても、天がくわえて いったと。
オッカア、帰ったよ。 熊さんとこで大喧嘩があった、お光さんと、新しい 女が大喧嘩したんだ、お前さんがいなくて、よかったよ。 ちょっと行ってく る、天災を振り回してくる。 天水桶なんか、振り回すんじゃないよ。
あなたに、言って聞かせましょう、耳でなく、へその穴で聞いてくれ、耳は 取次の次男次女という。 俺は、三男だ。 これは困りましたな、ここに手紙 がある、あなたはタンキだそうで。 タヌキじゃない、熊だ。 柳をごらんな さい、風が吹くと南へ南へとなびく、北から風が吹けば、どっかの居酒屋で一 杯やろうということになる。 神主のなる神主は誰もする、奈良の神主、駿河 の神主……、神主の袋をいつも首にかけ、やぶれたら縫え。 俺が縫うのか。 困りましたね、屋根から小僧が降ってきて、馬が降るとヒンヒンと鳴き、夕立 に小僧が水を撒く。 何を間抜けなことを言っているんだ。 なにごとも、天 災とあきらめろ。 なに、天災じゃねえ、先妻がどなりこんだんだ。
志の春、かなり固くなっていて、爆笑とはいかなかった。 サムゲタンナム ルは、新機軸。
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