「日記」から読む板垣洋行問題 ― 2016/09/29 06:21
川崎勝さんの講演は、大きく「1882(明治15)年の「日記」から」と「板 垣洋行問題と馬場辰猪」の二つを扱った。 このあたりの流れを、萩原延壽『馬場辰猪』によって8月9日に書いた「自 由民権運動の挫折と馬場辰猪の悲劇」で復習しておく。 「「明治14(1881)年の政変」によって危機を乗り切った藩閥政府は、きたる べき明治23(1890)年の国会開設期をめざして、周到な準備と着実な努力を かさねていた。 明治15(1882)年5月伊藤博文を中心とする使節団が憲法 調査のためヨーロッパに出かけて成果をあげたのはその好例である。 一方、 自由民権運動の側では15年4月改進党が結成され、漸進主義の第二党が生ま れた。 しかしながら、国会開設要求という運動が、その公約を獲得するとい うことで一応の目標を達成してしまうと、運動の内部でかなりの問題が生れは じめた。 自由党では党主板垣退助の外遊問題が起った。 これは明治15 (1882)年8月の末のことであり、党結成後わずかで党主が党と国とを一年近 くも離れることに反対した馬場辰猪は板垣と激突した。 馬場の持っていた危 機意識は、藩閥政府と自由民権運動との真の闘いは実は国会開設の詔勅の発布 された明治14年10月にはじまったというものであった。 しかし板垣は外遊 し、馬場辰猪は1年たたないうちに自由党をはなれる“はめ”におちいった。」
川崎さんは、新発見の1882(明治15)年の馬場辰猪「日記」で、板垣退助 の外遊と馬場の自由党離党の経過をみる。 馬場辰猪は1881(明治14)年10 月18日の自由党結党とともに常議員に就くが、12月に右脚深在性皮下膿瘍を 発病し、翌82年5月まで療養生活を余儀なくされていた。 5月30日に退院、 さっそく機関紙『自由新聞』の用事で繁忙となる。 8月25日、五(後)藤象 二郎宅で、板垣洋行のことを聞き、大石正巳(土佐出身、後にダイナマイト購 入事件で馬場と共に逮捕され、一緒に渡米もする)とともに異論を唱える。 8 月29日、板垣に会い洋行の不可なるを忠告。 9月8日、常議員会で洋行の不 可なるを多数で決す。 9月16日、東京地方部の会場で、板垣の洋行は政府の 策略から出ていると論じ、板垣総理(党首)に辞表を出させることを決す。 し かし、ここから板垣は巻き返す。 9月28日、板垣から『自由新聞』の奥付の 馬場の署名を除くと通知があり、9月30日、馬場は常議員を辞し、10月2日、 『自由新聞』退社を決める。 馬場らの板垣批判の対象は、一貫して「板垣洋 行」であり、外遊費出所の問題というよりも、結党間もないこの重要な時期に 板垣の進退(長期の不在)は、自由党の前途の利害に大いに関係があると考え たからだった。
川崎さんは、1882(明治15)年の馬場辰猪「日記」で、福沢が出てくるの は、ただ一箇所、11月13日「今日福澤ニ至ル 夜ニ入テ帰ル」だけだと言う。 前々日の11日、板垣退助と後藤象二郎は、ヨーロッパに向けて横浜を出発し ていた。 昼間からいて、夜までというから、長い時間だった。 福沢の方に も記録はないが、自由党のこと、板垣との対立、自由党と自由新聞から追い出 されたことなどが、当然話題になったであろう。
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