石原八束の三好達治伝、三国隠栖と東尋坊2016/09/10 06:32

 三好達治全集の俳句を選ぶのに協力したという俳人石原八束(大正8(1919) 年~平成10(1998)年)は、父石原舟月(起之郎)の師である飯田蛇笏に師 事、俳誌『雲母』に投句、昭和21(1946)年から飯田龍太とともに『雲母』 の編集に携わった。 昭和24(1949)年から三好達治に師事、第一句集『秋 風琴』は三好の命名によるという。 後に俳誌『秋』を創刊した。 八束も若 い頃には結核で療養を余儀なくされている。

 その石原八束に、『駱駝の瘤にまたがって 三好達治伝』(新潮社・1987年) があり、私の書棚にあった。 「十三 離婚、越前三国隠栖、敗戦」という章 がある。 昭和17年に於ける三好の著作刊行は、詩集『覊旅十歳』と詩集『捷 報いたる』と書下し詩論集『諷詠十二月』の三著であるとあるが、偶然『諷詠 十二月』は新潮文庫の平成5年復刊本を私も買っていた。 三好の著書中、詩 集『春の岬』、『新唐詩選』(吉川幸次郎と共著)とともに、最も版を重ねた三著 で、名著と云われる、とある。 そういえば、『新唐詩選』もどこかにあるはず だ。

 そこで、越前三国隠栖だが、秦秀雄は戦後、井伏鱒二作品の「珍品堂主人」 のモデルとして有名になった古美術評論家、秦も秦夫人も三国出身で、三好に 疎開隠栖してはどうかといった。 三好は別れた妻子を小田原に残し、昭和19 年3月末三国に行く。 秦に紹介された町の病院長森芳夫医博の口添えで、町 の森田家の西別荘を借りて入ることになった。 森田家の後継者にあたる森田 正治氏は画家で、母堂の令兄は三好の大学時代の同窓だったという縁もあった。  その森田家西別荘は旅館「若えびす」のすぐ隣の高台にあり、東尋坊も近く眺 められる絶佳の場所にあった。

 4月、萩原朔太郎の妹アイを迎えて新生活が始まった。 だが、ふたりの生 活は冬の北風が吹き荒れる頃には、すでにのっぴきならぬ罅(ひび)が入って いた。 食糧難はどこも同じだが、三国は漁港で生きのよい魚介類なら手に入 る。 アイはそれを料理できず、一番美味なところなど切り捨ててしまって平 気でいる。 これでは大阪育ちの美食家三好の癇にさわらない訳はない。 一 事が万事、衝突がたえなくなり、昭和20年の2月には破局がきて、アイは三 国の三好のもとを去った。

 三好がまた死を考えるようになったのはこのときからである。 ショウペン ハウエルの厭世哲学が流行した時代に学生生活をおくった三好が、死の誘惑に 堕ちかけたことは、前にも度々あった。 東尋坊への松林の道を歩いていて、 つい断崖の上から奈落の海をのぞいていることがたびたび重なって、死という 想念に引きずりこまれている自分に気付いてはっと驚くという始末であった。

 時代は本土空襲の最もはげしくなった昭和20年の春のことである。 おめ おめ自殺など考えなくても、死にたければいつでも死ねる、いや、死にたくな くても、すぐにも死なねばならないときが来る、と考えねばならなかった時で ある。 三好はしかし、夜も昼も雨戸をとざした電燈のもとで、来る日も来る 日も筆を握り、懸腕直筆を守って「天地玄黄」の千字文の習字や直筆詩集「春 愁三章」の筆写を続けて倦むところがなかった。 このため三好の書は目をみ はるほど見事に上達したという。

 9月7日フジテレビの「みんなのニュース」で、東尋坊に「ポケモンGO」 の珍しい妖怪が出るというので、沢山の人が押しかけているというのをやって いた。 昼間はもちろん、夜になっても賑わっている。 夜中でも、人がいる ので、付近をうろうろして、断崖の上から海をのぞいているような自殺志願者 の姿を見かけなくなったと、土地の人が話していた。