言論の自由について〔昔、書いた福沢25〕2017/11/16 07:11

  等々力短信 第390号 1986(昭和61)年5月5日

             言論の自由について

 天皇在位六十年の記念式典を翌日に控えた4月28日の夜、三宅坂の国立小劇 場に落語を聴きに行った。 地下鉄を麹町で降り、鶴屋八幡に寄り、角の満留 賀でそばを食って、隼町の裏道から国立劇場の裏へ出るのが、落語研究会の日 の決まりのコースなのだが、そこかしこ、めったやたらに警官がいて、「警察国 家」や「戒厳令」という言葉が頭に浮ぶ厳戒であった。 あの防人のような青 い完全武装は、あまり持ちのよいものではない。 これから落語というゆった り気分に水をさされて、花火かなんぞのような、ちゃちな火炎弾の一、二発位、 打たせてやりたいという、判官びいきの心持にさえ、なってくる。

 戦前戦中、もし、こんなふうに書いたら、憲兵隊か警察かに、ひっぱられた であろう。 ありがたい世の中に生きていることを、喜ぶと同時に、この自由 がいつまでも続くことを願わずにいられない。 ソ連では、コピー機の使用も、 当局によって厳しく規制されているらしい。 ワープロで、個人新聞を出すな ど、もってのほかだろう。

 丸山真男さんの『「文明論之概略」を読む』(中)に、昭和10年代には、福 沢諭吉の『文明論之概略』でさえ、削除され白紙になっていた箇所のあったこ とが書かれている。

 福沢は、歴史をとらえるのに、伝統的な英雄史観や治者史観によるのではな く、科学(サイエンス)として歴史を考え、大量観察によって、ある傾向性、 規則性、法則性を認識しようとした。 「時勢」、即ち「人民の気風」、つまり 「其の時代の人民に分賦せる智徳の有様」を問題にした。 建武の中興の例で は、後醍醐天皇が足利尊氏に対する功賞を厚くして、楠木正成以下勤王の功臣 を捨てて顧みなかったのは、「後醍醐天皇の不明に因るにあらず」と、天皇個人 の徳の問題でなく、時代の勢いなのだ、と、ことわっているのに、この部分が 削除になったのだそうである。

 削除は、戦後の『福翁自伝』にもあったと、富田正文さんが話しておられた。  占領国を誹謗している箇所が、問題になったという。 おそらく、薩英戦争の ところの「元来イギリスとロシアの間がらは犬とサル」だと思うが、まだ戦争 直後の岩波文庫本に、当ってみる機会が、ない。

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