柳亭市馬の「青菜」下2020/07/22 07:11

 今日ぐらい、驚いたことはなかった。 お屋敷で仕事してたら、旦那が、植木屋さん、ご精が出ますねってんだ。 柳蔭という酒と鯉の洗いをゴチになった。 お前なんぞ、鯉の洗いを知らないだろう。 知ってるよ、嫁に来る前は食べてたよ。 それから植木屋さん、菜はお好きかってんだ。 旦那が手を叩いて、奥や、と呼んだ。 お屋敷の奥様は、こういう形(三つ指ついて)だ。 蛙がそういう形をすると、明日雨が降るよ。 旦那様、鞍馬から牛若丸が出でまして、菜は九郎判官。 義経にしておきなって…、わかるか。 わかるよ、火傷のまじないだろ。 俺は、どなたか、ラクライじゃないかって聞いた。 ラクライ? お客が来ることだ。 それライキャクだろ。 旦那と奥様との、とっさの隠し言葉なんだそうだ。 旦那様、鞍馬から牛若丸が出でまして…、なんてことが、お前、天井からぶら下がったって、言えないだろう。 私はコウモリじゃないからね。 そういう気の利いたことは言えないだろ。 言えるよ、お屋敷に住んでみろ。 お屋敷か……、二三年あれば…。 そんなものいらないから、裏の便所の電気の球でも買って来い。 友達が来た時に、やってやろうじゃないか。 感心して、今は植木屋だが、先は華族様かなんて言って、俺を馬鹿にしなくなる。

 半公が来た、絹張りの団扇はないから、へっついの所の渋団扇を取れ、お前は次の間へ行ってろ。 一間しかないよ。 押し入れに入えれ。 大きなケツだな。 おう、おう、だいぶご精が出ますね。 出ねえよ、何言ってんだ、あんまり暑いから仕事休んで、昼寝して、湯へ行ってきた。 湯、空いてたから、お前も行ってきたらどうだ。 隣の婆さんが水を撒いてくれたから、青い所を渡る風が涼しい。 青い所なんかない、茶色い所ばかりだ、ごみ溜めに、ハサミムシがいたよ。 植木屋さん、ご精が出ますね。 植木屋はお前だ、俺は建具屋だ。 でも植木屋におなり。 何、変なことばかり言ってるんだ。 ご酒はお上がりか。 知ってるじゃねえか、酒は浴びるほどだ。 縁側におかけなさい。 ただの板の間だ、汚たねえな、俺の着物が汚れる、少し掃除したらいいよ。

 大阪の友人にもらった柳蔭、こっちの直し、ガラスの猪口でお上がり。 欠けた瀬戸物の猪口じゃねえか、でも、お前が酒を飲ませるなんぞ、百年に一遍あるかどうかだ。 直しでも何でもない、当たり前の酒じゃねえか。 あなたは日向で仕事していたから、口の中に熱がある。 昼寝して、湯に入って、さっぱりしてる。 でも、冷たく感じるんだな。 燗がしてあって、あったけえ。 鯉の洗いを、お上がり。 鯉の洗い、焦げてるじゃないか、鰯の塩焼きだ、旬だよ、でえ好きだ。 旨いよ、脂が乗ってるし、塩加減もいい。

 時に、植木屋さん、菜のお浸しはお好きか。 嫌いだ。 それはないよ。 なんで泣いてんだ、ちいせえ時から青いものは嫌いだ、香こも食わない。 こっちにも都合がある、そこをやりくって、好きだって、言ってくれないか。 言うだけだ、食わないぞ…、好きだよ。 取り寄せる。 わざわざ、取り寄せるんなら、いらないよ。 取り寄せるって、言ってるんだ、しめえには張り倒す。 ポンポン、これよ、奥や。 旦那様。 びっくりしたよ、かみさん、買い物でも行ってるのかと思ったら、この暑いのに押し入れに入えってたのか、裸で襦袢に腰巻一つ、汗だくで、猿回しのエテ公みたいになってるじゃねえか。 旦那様、鞍馬から牛若丸が出でまして、菜は九郎判官義経。 義経……、ム、ムッ、じゃあ弁慶にしておきな。