明治憲法制定と伊藤博文内閣総理大臣 ― 2021/01/21 07:03
シュタインの憲法論は、立憲君主制度であった。 その国家学の特質は、国家を人格として捉え、その三つの要素は君主、立法、行政であり、この三者が相互に独立しながらも、互いに規律しあい、一つの秩序を作るのが国家であった。 このうちどれか一つが突出するのも好ましくない。 シュタインは議会に予算審査の権限を与えることについては慎重だったが、伊藤はより進歩的な案を起草することになる。
伊藤博文は、明治3年から4年にかけて財政問題に関する調査のため訪米したとき、ハミルトン・フィッシュ国務長官に勧められた『ザ・フェデラリスト』を愛読していた。 『ザ・フェデラリスト』は、アレクサンダー・ハミルトン、ジェイムズ・マディソン、ジョン・ジェイの3人が新聞に発表した85編の論文をまとめたもので、1787年に起草された連邦憲法案を擁護し、その承認を確保するために書かれたものだった。 伊藤は、天皇のもとにある日本の国の大政に、民権的な民主的要素を加えていくことを考えた。 北岡さんは、伊藤がこの本を熟読したとすれば、彼の関心を引いたはずの三点を挙げる。 一つは軍が必要であり、しかし同時に危険でもあって、注意が必要であること。 第二に、多数の専制に備える必要があること、第三に、そのためにも、三権分立が必要であること。 伊藤が、天皇は国家の機軸であるとしながら、具体的な権力の行使においては極力内閣その他がこれを行い、天皇の責任に及ばないようにすることを重視したが、そこには『ザ・フェデラリスト』の影響もあったかもしれない。 ハーヴァード留学から帰国して憲法草案の起草に加わった金子堅太郎によれば、憲法草案を議論する際、伊藤はつねに『ザ・フェデラリスト』を座右に置き、繰り返し読んだという。
明治18年12月、権限と責任が一致した近代的な内閣制度が定められ、内閣と内閣総理大臣の権限は絶大なものとなった。 初代内閣総理大臣となった伊藤博文は、父が農民から足軽になった人物で、武士の中では最も低い身分だったが、徳川時代でいえば将軍以上の地位に就いたのだ。 年齢も44歳だった。 明治維新が能力主義の革命であるという点は、ここに最も顕著に表れている。 福沢は、明治14年政変以来、伊藤をよく思っていなかったが、この制度改革は、実力者が最も重要な地位に就いたという点で、高く評価している。
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