米山光儀教授の「社会教育」という言葉2021/01/14 07:01

 福澤先生誕生記念会は、次いで岩沙弘道評議員会議長(三井不動産会長)の挨拶があり、コロナ禍でオンライン化の超スマート社会への新たな可能性が開ける一方で、人的交流がリアルでなければならない、慶應義塾では生涯の友を得るキャンパスライフが大切だ。 リアルとバーチャルがマッチする、未来への希望や挑戦のある、智の拠点としての慶應義塾でなければ、と述べた。

 記念講演は、米山光儀(みつのり)慶應義塾大学教職課程センター(中学・高校の教員を養成する)教授(専門は近代日本の社会教育史)で、演題は「福沢諭吉と社会教育」だった。 米山光儀さんの講演は、福澤研究センター所長の頃、2009年に「未来をひらく 福澤諭吉展」の平成館講堂での記念講演会で「同床異夢の教育―福澤諭吉と近代日本の教育」と、福澤諭吉協会の土曜セミナーで「社会教育史の中の慶應義塾」を、2012年の福澤先生ウェーランド経済書講述記念日の講演で「「修身要領」再考」を聴いたことがあった。(16日に参照先一覧を出す予定。)

 「社会教育」という言葉、最近使われない言葉だが、日本独自の言葉で、そこには近代の歴史的変遷がある。 福沢はきわめて早く、最初に使ったと言ってもいい。 それを門下生や交詢社が使い、キリスト教、メディアが使った。 「社会」は社会主義を連想させるので、政府は明治半ばに「通俗教育」を使った。 大正からは文部省に社会政策課ができ、後には社会政策局になった。 経済面から教育的救済を図るものだったが、戦時下に解体され、教化局、教学局になった。 戦後は、社会教育局が出来、社会教育法が制定された。 1960年にユネスコが「生涯教育」を提唱、80年代に「生涯学習」がいわれ、生涯学習局に変わったが、現在はなくなっている(総合教育政策局)。 「社会教育」という言葉は、使われなくなっている。

 米山さんは1970年代に学生だったが、「社会教育」が使われていた。 3年生で「社会教育」を知り、「教育原理」が必修、「社会教育」松本憲(あきら)さんの土曜4限のゆるい雰囲気の授業があった。 大正期のことを調べた。 慶應義塾の幹事・理事を務めた石田新太郎は、大正13(1924)年に成人教育協会を創設し、チュートリアルクラスによる成人教育の普及に努めた。 ユニバーシティー・エキスパンションは早稲田大学の通信講義録ばかりが有名だが、慶應にも地方巡回講演があった。 それは「修身要領」の普及活動に始まり、学問の内容にまで及んだ。 明治41(1908)年から、春夏の休みに学術講演が行われた。(つづく)