「三浦半島」の海軍水上特攻隊基地2021/01/11 07:11

 『新日本風土記』で「三浦半島」(12月18日放送)を見ていたら、首都東京を控える東京湾の入口で、重要な軍港横須賀のある三浦半島に、海軍の特攻隊の基地がいくつかあったことをやっていた。 調べると、太平洋戦争末期の昭和20(1945)年4月からのことのようだ。 飛行機による体当たり自爆攻撃でなく、船艇や人間魚雷による体当たり自爆攻撃が目的だった。 「震洋」という爆装体当たり艇は、4月10日油壷の小網代湾に「第27震洋隊」、6月15日三浦市松輪の江奈湾に「第56震洋隊」岩舘部隊の基地が出来た。 「回天」という人間魚雷は、敗戦間近の7月25日横須賀市小田和湾に「第14回天隊」の基地が配備された。

松輪の福泉寺を本部にした「第56震洋隊」岩舘部隊は、岩舘康男中尉を部隊長に、士官5名、下士官51名の搭乗員と、基地隊、整備隊員127名の計181名の部隊だった。 搭乗員の多くは予科練出身の16歳から17歳の少年たち、飛行機乗りになる訓練を受けてきたが、戦況悪化の飛行機不足で、震洋隊に回された。 長崎県川棚町で2ヶ月の短期訓練を受け、配属された。

 「震洋」は、先端の甲板の下に250キロの爆弾を積んだモーターボートで、自動車用のエンジンを使った。 モーターボートと言っても資材不足もありベニヤ板製、隊員はいつも「甲板に乗るな」と注意されていたという。 「第56震洋隊」には47隻、「第56」というから他にも沢山隊があって、全体で6200隻造られたともいう。 「第56震洋隊」は実戦に出撃することはなかった。 番組に出てきた福泉寺の鈴木元奘住職は、隊員有志が戦後60年を記念して境内の木の陰に建てた記念碑について、戦争に役立たなかったからといって、そう謙遜することもないのに、と語っていた。

 戦争末期の海軍の特攻隊は、変人参謀といわれた軍令部第二部長黒島亀人(かめと)大佐が提案計画したものだそうで、人間魚雷「海龍」、小型潜水艦「咬龍」などもあり、「咬龍」「震洋」は実際に戦闘に使われたという。

 ここまで書いて、城山三郎さんのことを思い出した、それはまた明日。