「福沢諭吉の本当の師は野本真城」(三)2021/08/08 07:42

 中津藩で西洋砲術導入の機運が高まったのは、そのペリー来航3年前のことだった。 中津藩は、嘉永2(1849)年12月の老中首座阿部正弘の海防通達から約半年後の嘉永3(1850)年7月、江川英龍門下の砲術家松代藩士佐久間象山を軍事顧問として採用した。 その世話をしたのは、江戸詰の軍学者島津良介を中心として、息子島津文三郎、岡見彦三、土岐太郎八らであった。 福沢諭吉は8年後岡見の周旋で江戸に着任し、さらにその2年後島津夫妻の媒酌で土岐の娘と結婚することになるが、当時の江戸家老は奥平壱岐だった。

 佐久間象山は、嘉永3(1850)年から嘉永6(1854)年までの4年間、二本榎(高輪)の下屋敷で、藩兵を指導して、西洋砲術の軍事教練を行なった。 象山の門人帳『及門録』には、島津、岡見のほか吉田権次郎、横山犀蔵など百人近くの中津藩士の名がある。 そればかりか江戸最高の砲術家ということで、『及門録』には、山本覚馬(会津藩)、勝海舟(幕臣)、津田真道(津山藩)、小林虎三郎(長岡藩)、吉田松陰(長州藩)、加藤弘之(出石藩)、河井継之助(長岡藩)、橋本左内(福井藩)の名もある。

 中津では、嘉永3(1850)年の時点での藩政の主導権は保守党に復していたと考えられるが、保守党には砲術を学ぶ適性を持った者が少なかったようで、砲術修業のため中津から長崎や鹿児島へ派遣されたのは、奥平壱岐、浜野覚蔵(定四郎の父)、服部五郎兵衛、そして福沢諭吉など、いずれも改革党の子弟で、野本門下生だった。

 『福翁自伝』には、兄三之助に勧められるままに長崎に赴いたように書いてある。 しかし、この遊学が藩の意向に沿ったものであったことは、一足先に長崎で砲術を学んでいた元家老奥平与兵衛の息子壱岐(当時は十学と名乗る)と宿舎を共にしたことと、その後の経緯からみてほぼ確実である。 主君と姓を同じくする奥平家は、本来の姓を中金(なかがね)といって、700石取の大身格であった。 父与兵衛はかつて進脩館で野本真城、福沢百助らと机を並べていた改革党の同志、というより事実上の指導者だった。 文政8(1825)年5月に家老に就任したが、どうやら財政上の失政があったらしく、2年後には未だ幼少だった壱岐に家督を譲って引退している。

 福沢の長崎遊学は西洋砲術修得の藩命によるものだと推定でき、藩士のうち砲術を学ぶ適任者を選任していた大橋六助など、野本真城門下生グループの推薦と後押しによるものだったらしい。 『福翁自伝』ではすっかり家老のバカ息子で悪者にされた奥平壱岐だが、彼も野本の弟子であり、その父奥平与兵衛の関与も大きかったのだろう。 中津藩内に、保守派と改革派、実学派と尊王派の争いがあり、それが福沢の長崎遊学から蘭学塾開塾まで複雑にからんでいるのだった。

 安政3(1856)年、福沢諭吉は大坂の適塾にいて腸チフスに罹り、リューマチを患い任期満了になった兄三之助と共に、5、6月ころ中津に帰る。 この年3月に還暦を迎えた野本真城が亡くなったのは、たまたま福沢兄弟が帰省していた7月3日のことだった。 諭吉は養父の中村術平を説得して、西洋砲術修業の願書を出し、大坂の適塾に戻るが、9月兄三之助の訃報が届き、中津に帰って福沢家を継ぐことになる。

 将軍家茂が朝廷の攘夷実施の求めに応じて京都に向かったのは文久3(1863)年3月13日、京都滞在中の将軍の警護を命じられた中津藩は、藩主奥平昌服(まさもと)と家老奥平壱岐以下総勢160名余りで江戸を出発した。 この京都で、次期藩主になる嫡養子(儀三郎、昌邁(まさゆき))を宇和島伊達家から迎える件について反対する勢力からの建白があって、奥平壱岐は家老を免職になっている。

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