『福澤諭吉書簡集』の「金森吉次郎」2022/06/18 07:02

 『福澤諭吉書簡集』では、どうなっているのか、帰宅してから確認した。 「金原明善」と「金森吉次郎」で索引(書簡番号の斜体は本人宛、他は名前の出る書簡)を見る。 問題の書簡は、第7巻書簡番号1676の金森吉次郎宛、明治24年12月22日付で掲載されていた。 要旨は【濃尾地震の罹災地に対する救援・復興に、ひきつづき『時事新報』によって尽力することを約する】。 解説に、金森吉次郎は美濃の人。『時事新報』が罹災直後から救援のための論陣を張ったのを頼み、罹災者代表として上京した際、福沢に種々尽力を依頼した。「所郁太郎関係文書」(『全集』21)の中に金森から福沢宛の書簡などがあり、それとの関連で書簡1803、1804がある。「早々執筆」(の論文)は、翌25年1月8日付『時事新報』社説「震災地の手当を遅々す可らず」(『全集』13)。

 「金森吉次郎」宛書簡は、上の1676、と1679、1804、関連書簡は1803の井上馨宛で、みな第7巻にある。 1679は、明治25年1月15日付で、和田義郎の死去のため、今日の来訪の延期を乞うもの。 1804は明治26年11月15日付、来宅時に尋ねられた緒方洪庵の塾で同窓だった所郁太郎の履歴調査について、同窓で所と懇意だった柏原学而に問い合わせて、中間報告したもの。 「所郁太郎関係文書」(『全集』21)の註に、所郁太郎は、幕末、国事に奔走して長州にあり、禁門の変の後、長州に逃れ、刺客に襲われた井上馨に大胆な外科手術を施して、九死に一生を得せしめたが、陣中に病を得て没した。 品川弥二郎が往年の僚友を思って、金森吉次郎に問い合わせたのが端緒となり、福沢が履歴を調査することになった。 1803は井上馨宛、同日付、金森から尋ねられて調べた所郁太郎の履歴を、関わりのあった井上馨にも届けたもの。

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