骨董品買入に、中村道太から「銀貨千二百」を借りた2022/12/18 07:57

 この話に興味を持った私は、帰宅してから『福翁自伝』の該当箇所を探して、「品行家風」「子女に財産分与の法」にあることを確認した。 さらに松沢弘陽さんの「新日本古典文学大系 明治編」『福沢諭吉集』(『福翁自伝』だけの収録)の、厳密詳細な校注を見てみた。 「二千二、三百円かで、何百品」のところに、以下のようにあった。

 「明治14年(1881)12月15日付、中村道太宛書簡は、この年の春の「骨董買入之節」、「銀貨千二百」を借りたのに、返済が滞っていることを釈明するものである。この書簡に付された注は、これが『福翁自伝』にいう伝統工芸品の米国への輸出を阻むために、中村から借金して一括して買取り洋銀で支払ったことを指すのではないかとする(『書簡集』3、173-174頁)。

 『福澤諭吉書簡集』第3巻、書簡番号630の中村道太宛書簡を見る。 要旨は【借金返済のための金額をほかの目的に使用している旨を伝え、了承を求める】。 中村道太は、三河豊橋藩士で江戸詰中、鉄砲洲の塾を訪ねて福沢と知り合い、維新後洋物商を経営、やがて福沢の紹介で早矢仕有的と知り合い、丸屋商社の共同経営者になる。 福沢が紹介した西洋式簿記術をいち早く理解し、その達人になり、丸屋の帳簿類を管理していた。 明治9年豊橋に帰り、第八国立銀行を創立、翌年渥美郡長。 明治12年福沢に促されて上京、大隈重信の知遇を得て、洋銀騰貴問題に関して意見を述べ、これが翌13年2月の横浜正金銀行の設立と中村の初代頭取就任に発展する。

書簡では「ほかの目的」の例に、「本塾之維持金毎月三百円」とあるが、註には、「明治13年11月に発表された「慶應義塾維持法案」に付された寄付金申込に、福沢と中村の共同名義で3600円を「明治14年中出金」として申し込んでいるのに相当する」、また「「銀貨千二百」とあるのは、輸出品であったから当時の貿易決済用通貨である洋銀(ドル銀)で支払ったことを言うのであろう。」とある。

 ただし、骨董品買入の相手が、大倉孫兵衛だったかどうかについては、残念ながら解明できなかった。