興福寺の歴史と藤原氏2023/07/09 06:51

 興福寺。 「もともと、法相をインドから唐に持ちかえったのは、『大唐西域記』の玄奘三蔵(602~64)であった。かれは長安の慈恩寺(大雁塔のある寺)などでこれを翻訳し、その弟子窺基(きき・632~82)が承(う)け、『成唯識論(じょうゆいしきろん)』という註釈書を書いた。/それが、興福教学の根本の典籍になっている。/法相・唯識の学問と思想は、日本人の思弁能力を高めたとはいえるが、しかしただ一冊の哲学書を、興福寺という巨大な大学が千数百年も研究しつづけるというのは、尋常とはいいにくい。」「人間の精神活動のなかでの袋小路のような一主題を千数百年もくりかえしたのは、世界にも類のない知的営為であったといえる。」

「そういう壮大な奇現象を可能にしつづけたのは、思想ではなく、経済であった。/ここで考えねばならないのは、興福寺の大檀那が藤原氏であることである。鎌倉期までの日本政治史は、藤原氏の家族史であり、権力と富はこの一門にあつまった。そういう家の氏寺である以上、平安期いっぱい、興福寺には荘園が寄進されつづけた。その荘園は、ほぼ大和地方に集中した。/その経済力は、僧兵を擁し、中央から地方長官として大和国の国司がきてもこれを相手とせず、ついには大和一国を私領化した。平安後期のことである。」

 「源頼朝が鎌倉幕府を興したときも、大和における興福寺の勢力に手がつけられず、頼朝はむしろ妥協し、興福寺をもって、「大和守護職」とした。興福寺は鎌倉を怖れず、大和一国は「武家不入の地である」と豪語した。」

 「織田・豊臣政権によって旧興福寺は大きく寺領を削られた。江戸期、それでも幕府は二万余石を与えた。万石以上というのは、石高からいえば大名である(塔頭のぬしの位階はなみの大名を超えている)。」

 「旧興福寺の致命的欠陥(もしくは特徴)は、この巨刹を構成している塔頭子院のぬしが、ことごとく京の公家(藤原氏)の子だったことである。」

 「公家にも、階級がある。最高位の摂関家の子弟は、興福寺筆頭の一乗院・大乗院に入り、門跡になる。この両院が交代して興福寺別当(長官)の地位につくのである。」

 興福寺は、藤原氏の氏神である春日大社を支配下に置き、大きな権勢を振るっていた。

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