日吉の弥生時代集落、日吉台・矢上台の古墳2023/07/27 07:06

 同じ慶應義塾創立150年の2009年8月~9月、横浜の神奈川県立歴史博物館で、特別展「福澤諭吉と神奈川 すべては横浜にはじまる」が開かれた。 その図録に、「日吉キャンパスの弥生時代集落遺跡」、「戦前における日吉台・矢上台一帯の古墳の調査」、さらには「慶應義塾湘南藤沢キャンパス内遺跡」という項目があった。 筆者は安藤広道慶應義塾大学文学部准教授(当時)。 西岡秀雄先生たちの、発掘調査の全体像と現状がわかるので、紹介したい。

 「日吉キャンパスの弥生時代集落遺跡」

 日吉キャンパスのある台地(日吉台)は、弥生時代の巨大な集落遺跡として知られている。 遺跡は、戦前のキャンパス建設時に発見され、工事の進行とともに発掘が行われた。 当時としては日本最大となる弥生時代住居跡の発見など、重要な成果が報告されている。 戦後になって、しばらく遺跡は破壊されたと考えられていたが、平成18(2006)年以後、新校舎の建設で再び発掘調査が行われるようになると、戦前にも増して重要な発見が続くようになった。 なかでも平成19年の巨大な住居跡の検出は、日吉台の遺跡の重要性を再認識させる特筆すべき成果だという。

 現在まで日吉台で確認された竪穴式住居跡は150軒を超えており、本来は、台地全体に1000軒を超える住居跡が存在したと考えられる。 住居跡の大半は、弥生時代後期後葉~終末(2~3世紀)のものである。 邪馬台国の時代、日吉台には多摩川南岸、鶴見川流域一帯の中核となる巨大な集落が形成されていたことになる。

「戦前における日吉台・矢上台一帯の古墳の調査」

 日吉台・矢上台の一帯は、かつて県内有数の古墳の集中地域であった。 慶應義塾は、日吉キャンパスの開校に前後して、これらを数多く発掘している。

 古墳の発掘調査は、昭和6(1931)年以降、日吉キャンパス内の円墳群から開始された。 その後、調査は周辺の古墳へと移行し、昭和11年には、キャンパス北方の日吉矢上古墳が発掘された。 日吉矢上古墳は、直径20m程度の円墳ながら、豊富な副葬品が出土して注目を集めた古墳である。 日吉キャンパスの東方約500mにあった加瀬白山古墳と矢上キャンパス東南端にあった観音松古墳は大型の前方後円墳で、昭和12年、13年と続けて発掘が行われた。 ともに前期古墳に特徴的な青銅鏡(三角縁神獣鏡など)を中心とする多数の副葬品が出土している。

 日吉台・矢上台一帯の古墳は、現在ほとんどが姿を消してしまった。 しかし、戦前の調査で得られた記録や遺物は、依然、東日本における古墳の出現から消滅までの過程を研究するための、第一級の資料であることに変わりはない。

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