あの手紙はラブレターだった2012/02/01 04:19

  2004年の5月、「手紙からみるアートシーン」がテーマの「港区民大学」を 聴講した。慶應義塾が協力して、講師と場所を提供する。 三田の西校舎519 番教室で、初めに前田富士男文学部教授、アート・センター所長の「近代絵画 と手紙」という話を聴いた。

当時書いた日記で、振り返る。 前田教授はフェルメールで始めた講義で、 最近観たというフェルメールの『真珠の首飾りの少女』の映画にふれた。 7 世紀オランダの画家やその生活を忠実に描いている点で参考になるという。  17世紀オランダは、市民生活の勃興期だった。 講義での最初のスライドは、 フェルメールの「手紙を読む娘」1659、郵便制度の発達、手紙のやりとりの一 般化、書簡文例集のあいつぐ刊行などで、手紙を読む女というテーマは、当時 かなり流行したらしい。 フェルメールの「ヴァージル(楽器)の前に立つ女」 1670では、背景にキューピッドの絵の額がかかっている。 キューピッドの絵 は、「一人だけを私は愛する」という意味なのだそうで、実は「手紙を読む娘」 もレントゲンで見ると、キューピッドの絵がいったん描かれ、饒舌すぎると思 ったのか、消されているという。 ということは、娘が読んでいるこの手紙は、 ラブレターだということになる。 ほかの絵では、嵐の海を船が行く絵の額が かかっているものがある。 これも、愛する、恋するというイメージで、心は 船のように揺れ動いているということなのだそうだ。

 手紙は、人間と人間のコミュニケーションで、書いて、届き、読まれるまで に、必ず時間の遅れ(ずれ)があり、そこに複雑な人間の関係や、愛と不安の心 理状態があらわれる。 絵画の中にあらわれた手紙は、そうした言葉のイメー ジをつなぎとめる。 ヴァージルやリュートのような楽器で、音楽の練習をし ているテーマも多い。 読んだり、聴いたり、触れたりする感覚、そうしたイ メージが絵画として現前化する。 言葉と絵画が、人間の生活を通じて結び付 けられている。

はっきり理解したとはいえないが、そんな風に絵を読み解く前田さんの話は、 とても刺激的だった。

『フェルメールからのラブレター展』と手紙2012/01/31 04:22

 『五の日の手紙』という私家本を4冊もつくったくらいだから、「手紙」に は、ずっと興味と関心があった。  Bunkamuraザ・ミュージアムの『フェ ルメールからのラブレター展』を見る機会を与えられた。 通常の展覧会の終 了後、午後7時半から9時まで、会場内たった100人で鑑賞するという特別 の券を頂いたのだ。 集った顔ぶれを見ると、皇族やマスコミ関係ではなく、 協賛者の関係だったようだ。

 今回来ているヨハネス・フェルメール(1632~75)の作品は3点だが、フェル メールの真作と確認されている絵は世界に32点しかないと聞いていたから、3 点でも展覧会を開く価値は十分ある。 それも(1)アイルランド・ナショナルギ ャラリー(ダブリン)蔵「手紙を書く女と召使」(2)アムステルダム国立美術館、 アムステルダム市寄託「手紙を読む青衣の女」(3)ワシントン・ナショナルギャ ラリー蔵「手紙を書く女」と、手紙をテーマにしたものが集められた。 現地 を回って見ようとすれば、ちょいと渋谷でというような訳にはいかず、かなり の経費と時間がかかるだろう。

 1点の前で解説が行われていたので、観客がそこに集中しており、私はほか の2点を、ほとんど独り占めにして、じっくり眺めることが出来た。 写真版 よりも、ずっと鮮明だというのが、第一印象だった。 アムステルダム美術館 の(2)「手紙を読む青衣の女」は、2010年から2011年にかけて修復が行われ、 あざやかな色と細部がよみがえったのだそうだ。 椅子に打たれた表面の真鍮 の鋲は、(3)「手紙を書く女」にもみられるが、側面の小さな釘の頭まではっき りしているのが、印象的だった。 青衣の色は、フェルメール・ブルーと呼ば れるラピス・ラズリの青(東山魁夷や平山郁夫作品で、高価な絵具と聞く)、こ れもワニスを取り除いた修復で、あざやかさを回復したそうだ。

 フェルメールがデルフトでその生涯を過ごした17世紀のオランダは、ヨー ロッパで最も識字率が高く、手紙のやりとりが急速に増えた地域だった。 当 時、手紙は個人の気持や強い感情を伝えることができるという考え方が広まり、 オランダの風俗画で、画家たちは手紙によってもたらされる感情の動きを描こ うとした。 手紙を読んだり書いたりする女性の姿は、愛に関連した場合が多 いとされる。 作品に隠された意味を解く手がかりが、描き込まれているもの もあり、(2)「手紙を読む青衣の女」の背景の地図は、遠方にいる恋人を示唆し ているかもしれないという。 壁に掛けられた海景図では、多くの場合、海は 愛、船は恋人を表象していた。

猪木武徳さんの「福沢の国法と道徳」後半2012/01/18 04:25

 福沢では、国法と道徳に対する見方が大事だ。 『学問のすゝめ』初編に、(政 府の官吏は)「人の貴きにあらず、国法の貴きなり」と、国法、法の支配が貴い と言う。 自由な法の概念を想定している。 『学問のすゝめ』六編は、題が 「国法の貴きを論ず」。 赤穂の義士と唱えるのは間違いで、私裁(リンチ)だと いう。 共通善に適さない。 この議論は荻生徂徠のそれに似ている。 公と 私の狭間で、人間は苦しむ、その尊さを理解している。 日本人は私を偏重し ている。 『文明論之概略』第六章「智徳の弁」は、私徳、公徳、私智、公智 を分類して論ずる。 私徳より公徳、私智より公智が、重要だとする。 物事 を判断するについて、その優先順位が大切。

 ここから猪木さんは、西欧では国法が公と私のジレンマを克服するものとし て考えられているという話をした(西洋倫理学と福沢の「徳義」論の近さ)。 ギ リシャ悲劇『アンティゴネ』や、アリストテレスの例を挙げたが、(学者先生ら しい話は私には無理)略す。 キケロは『友情論』で、国法を犯した友を弁護す るかを論じた。 福沢の『明治十年 丁丑公論』は、西郷隆盛批判に憤った、立 派な友情の書。 西郷の抵抗の精神を論ずる。 地方の治権(行政)を地方の人 民に分与するべき(地方分権)。 旧士族の力を地方自治に生かすべき、地方に 永住して、地方の情報を得て、働くべき。 西郷に対する弁護の根拠は、公の 理念(を目指す「抵抗」)、公徳という友情で結ばれた議論。 国民の官に対す る依頼心、中央集権を無批判に受け入れるのを慨嘆する。 それはデモクラシ ー(公智を持った人の共同体)の基礎を危うくする。 福沢はデモクラシーを強 調した思想家である。

第177回福澤先生誕生記念会2012/01/14 04:41

 10日は、第177回福澤先生誕生記念会があって、三田に行った。 いつもの 仲間と会い、福澤諭吉協会でお馴染みの皆様と新年の挨拶を交わす。 幼稚舎 生の「福澤諭吉ここに在り」(佐藤春夫作詞・信時潔作曲)と、ワグネル・ソサ ィエティー男声合唱団の「日本の誇」(富田正文作詞・信時潔作曲)の合唱を聴 いていると、新しい年が始まったのだという気分になる。 「三 そら戦争が  はじまるぞ 逃げよ かくれよ 危ないと うろたえさわぐ 大江戸に 落ち 着いた人 ただひとり 福澤諭吉 ここに在り」「五 立ち騒ぐまい 学生よ  戦する人 多けれど 勉強するのは 我らだけ この日我らが なまけては  洋学の道 あとを絶つ」

 清家篤塾長の年頭挨拶、東日本大震災からの復興、経済の回復のために、慶 應義塾が貢献していかなければならないとして、福沢の言葉三つを挙げた。  (1)実学=実証科学(サイヤンス)…問題の真の姿を理解し、問題解決の筋道を考 え、復興・再生に資する科学。 昨年 6月27日、学術シンポジウム「震災後 の東日本の復興・再生に向けて」を開いた。 (2)公智…物事の軽重大小を正し く判断し、優先順位を決める。 さまざまな判断を求められる厳しい状況に対 しては、知的強靭さが必要。 被災学生奨学金制度をつくり、まず卒業25年 の127三田会の寄付が充てられたのは、公智を働かせた結果。 (3)徳心(思い やる心)…福沢は明治の津波や地震の災害にいち早く時事新報で義捐のキャン ペーン活動をしたが、義捐金だけで人々を助けることはできない、一方、思い 切った財政、公的支出が不可欠と主張した。 徳心、同情心がなければ、人の 社会は成り立たない。 その精神は、若い塾生に受け継がれ、「慶應の森」・志 木高の自然学習で縁のあった南三陸町でのボランティア活動が行われている。

 悦ばしいことは、意義ある国際交流の進んだこと。 11月17日には、ブー タン国王ワンチュク陛下を三田山上にお迎えし、経済学名誉博士号を授与し、 演説館で講演をして頂いた。 授与は、国民総幸福量(GNH)という概念を普及 させた功績によるものだ。 GNHは、健康、文化、教育、自然環境の維持。 コミュニティーの温かさ、個人の幸福度などを重視する。 ワンチュク国王は、 講演の終りに、(「私たちの世代は成長の真の目的を再定義しなくてはなりませ ん。」「新しい成長の道筋を発見する責任を皆さんに託します。是非ともこの問 題に、誠意と大きな責任を持って取り組んで下さい。しかし、何よりもまず、 皆さん一人ひとりが善良で立派な人格を備えた人間でなければなりません。」と、 語った上で)「皆さんが、最後に人生を振り返ったとき、悔いなく、幸福と達成 感に包まれ、満足のいく素晴らしい人生だったと思えるよう、お祈りいたしま す。そして、私は、皆さんが、誇りを持って、ただの一人の人間として成し遂 げたあらゆる善行の知らせが、毎年届くことを祈っています。」と、述べた。

茶室の土と火、遠い住まいの記憶2012/01/11 04:14

 いくつかの茶室を設計し、このところ、茶室や、茶室のような小建築を頼ま れることが多いという藤森照信さん。 茶室の本質として“分かった”と思っ たのは「一坪の広さ」のほかに、もう一つあった。 土と火の問題である。 な ぜ利休は、貴重品を飾るべく成立した床の間の中を泥で塗り回してしまったの か。

 従来、利休以前に主流だった唐物(からもの・中国から輸入した品)を否定す るため、唐物の美学と正反対の粗い土壁にした、と説明されてきた。 藤森さ んは、それだけではなかったと考える。 唐物否定について利休は自覚的だっ たが、自分でも意識できないテーマがあったのではないか、というのだ。

 土が火と組んであの小空間の中で顕わになっていることに注目してほしい、 と藤森さんは言う。 原始的な段階の人類の住まいを考えると、水の近くに人々 は集まり、次に火を焚く。 火は集団用でなく、個々に(一家族も単身者もそれ ぞれ一つ)焚かれる。 そして、火の前に、枝や葉を集めてきてシェルターを作 り、その中にもぐり込む。

ここからは、『フジモリ式建築入門』(ちくまプリマー新書)の方がわかりやす い。 利休は茶室の狭い中に炉を切り、火を入れた。 それまで、使用人が別 のところで湯を沸かして茶を点て、茶室に運び、亭主が客に出したのをやめ、 亭主自らが火を起こし湯を沸かし、茶を点てるように改めた。 利休がわざわ ざ取り込んだ炉は、高床式、寝殿造、書院造のいずれでも主要な棟からは排除 されていたし、そもそも炉は、床(ゆか)の上にではなく地べたから盛り上げた 土の上に築かれている。 床に切られた炉は、土につながり、民家とその奥の 竪穴式の土間へとつながる、と藤森さんはいうのである。

高床式にはじまる上層的で貴族的で文明的な住まいの流れが、聚楽第の書院 造で頂点に達した時、利休の茶室はそれとは違う住まいと建築の原理があるこ とを、高床式以前の住まいの姿を借りて、示したのではないか。 土と火こそ が人の住まいの根拠である、と。

まず火があり、火の周りに人が集って一つの空間が生れ、空間をあり合わせ の材料で包んだ時、人間の住まいは出現した。 その遠い記憶が、利休の茶室 にはある、と藤森さんは“分かった”というのだ。