渋沢栄一と彰義隊2005/07/28 16:56

 森まゆみさんの『彰義隊遺聞』、「栄一と成一郎」というのは渋沢栄一と渋沢 成一郎の話である。 成一郎(喜作)は、渋沢栄一の従兄で、栄一が例のまだ攘 夷倒幕の過激派で高崎城襲撃・横浜居留地攻撃計画をした頃から行動を共にし、 一転、幕府方の一橋家に雇われた時も、一緒だった。 成一郎は、一橋慶喜が 徳川宗家を継ぎ、将軍となると、陸軍奉行支配調役、奥右筆格に取り立てられ た。 慶喜が謹慎する事態になって、担がれて彰義隊の頭取になる。 幹事の 須永於莵之輔、参謀として関わった尾高新五郎藍香(惇忠)も、栄一の身寄りの 者だった。 栄一の養子平九郎も隊列に加わっていた。

だから渋沢栄一が、日本にいたなら、かなり高い確率で彰義隊に加わってい ただろう、と森さんはいう。 栄一は、その前年慶應3(1867)年に慶喜の弟、 民部卿徳川昭武が幕府からパリ万国博覧会に派遣されたのに従って渡欧してい て、日本にいなかった。 帰国したのは上野戦争の半年後、明治元(1868)年11 月3日のことである。

彰義隊の頭取渋沢成一郎派と、副頭取天野八郎派の間で、路線の対立が生じ る。 渋沢は日光へ退却してたてこもることを主張し、天野は諸隊を率いて上 野の山に入った。 慶喜が水戸に退くと、渋沢成一郎は彰義隊を脱退する。 成 一郎は同志とともにあらたに振武軍千二百をおこし、5月15日の当日には、隊 士四百余人を率いて援軍にむかったが、田無にいたるころ、彰義隊の潰滅を知 った。 成一郎は飯能戦争を戦い、箱館へも転戦、榎本軍の一員として捕えら れたが、明治5年大赦にあって、有能をみこまれ大蔵省七等出仕となる。 再 び名を喜作に戻し、欧米巡視に赴き、横浜で生糸貿易にたずさわることとなる。  平九郎は飯能での戦いに敗れて、大宮へ落ちる途中の黒山村で、官兵と遭遇、 腹切って死ぬ。 尾高新五郎は、辛うじて郷里に帰り着いた。

このとき、渋沢栄一が日本にいたら、どうなっていたか。 その後の日本の 会社や経済社会は、おそらくいろいろ違っていただろう。 ごく身近な小さい 例では、私が第一銀行に勤めることはなかったであろう。