大相撲の年寄名跡2005/07/06 06:31

花田勝さんの相続放棄というニュースが飛び込んで来て、発言をくりかえし てきた貴乃花親方が道化役となって、問題は一応の決着を見たようである。 中 島隆信さんの『大相撲の経済学』で、年寄名跡(みょうせき)について知ったこ とを記しておく。 6月24日に「年寄名跡は105しかなく、毎年6~7人の関 取が引退するのに、年寄で定年になるのは平均3.5人、狭き門の年寄株は2億 円以上といわれる」と、書いた。 平成5年3月、先代二子山親方(元横綱初代 若乃花)が定年退職した際、先日亡くなった二子山親方(元大関貴ノ花、当時藤 島親方)から名跡譲渡の見返りとして3億円を受け取り、それを所得として申告 しなかったため、平成8年に申告漏れを指摘され、修正申告するということが あった。 平成15年には、先代立浪親方と現親方の間で訴訟となり、年寄名 跡の価格は1億7千5百万円であると裁判所が「財産価値」を認定した。 中 島さんは、年寄名跡を65歳の定年まで協会にとどまることの出来る権利、そ の生活を保障する年金証書のようなものだから、立派な資産だとみる。

税務当局も、裁判所も、社会常識も、年寄名跡を資産としてみているのに、 相撲協会の公式見解は「年寄名跡は代々継承していくのがならわし」(北の湖理 事長)で、金銭で取引されるものではないという。 つまり歌舞伎の名跡が子々 孫々引き継がれていくのと同じようなものであるということらしい。

 平成8(1996)年10月境川理事長(元佐田の山)が乗り出した年寄制度の改革案 には、名跡は「協会に所属すべき」であり「金銭売買してはならない」という 二大原則があった。 しかし、名跡が協会に所属すると親方が部屋の後継者を 選べなくなり、部屋の継続性に支障を来すという反対意見が続出、結局、取得 資格をやや厳しくして需要を抑え、供給を増やす方は重複取得を禁止しただけ に終った。 名跡を協会所属にするためには市場に出回っている名跡を吸い上 げねばならない。 それには需要を抑える必要があるが、需要を抑えれば名跡 の市場価値は下がるから、すでに名跡を取得した親方衆にとってはキャピタル ロスが生じることになる。 制度改革には、以前の制度でコストを払ってしま った人たちを補って余るだけの利得を、新しい制度から生み出さなければなら ない。 それは難題で、親方衆は反発、抵抗勢力となったのだった。

朝顔市と三田演説館の講演会2005/07/07 07:12

 きのう7月6日は、入谷の朝顔市。 起きた時はかなりの降りだったが、小 降りになったので、出かける。 すっかり閑居生活の定番となった。 夏のご 挨拶をいくつか発送して、一鉢下げて帰って来る。 これでまた、ひと夏、楽 しめる。 朝顔の鉢を下げていると、電車では隣の人が話しかけてくるし、自 由が丘では、いつもはろくに挨拶もしない果物屋さんが「朝顔市ですか」と、 笑いかける。

 昼飯を食い、昼寝をして、三田へ出かける。 相撲は早朝から何も食べずに 猛稽古をし、風呂に入って、ちゃんこを腹いっぱい食い、すぐ昼寝をするから、 ああいうふうに太るのだそうだ。 どこか、似ている様な、気もした。 演説 館で、福澤研究センターの講演会がある。 井上琢智(たくよし)関西学院大学 経済学部教授の「明六社・日本学士院と共存同衆・交詢社―福沢諭吉・小幡篤 次郎・馬場辰猪―」。 井上教授はイギリス経済思想、とくにジェボンズがご専 門という。 講演の概要は、また別に書こうと思うが、日本とイギリスの人的 交流関係、お雇い外国人と留学生を調べていて、馬場辰猪から福沢諭吉に研究 が及んだという。 それで馬場辰猪への言及が多く、井上さんが「馬場が」「馬 場が」といわれるのを、こそばゆく聴いて外に出て、岩波書店で『馬場辰猪全 集』を編集された福澤諭吉協会編集委員の竹田行之さんにご挨拶すると、「最近、 とみにご先祖の評価が高いようで…」と笑われる。 福澤協会の史蹟見学会で 谷中墓地に馬場辰猪のオベリスクの墓を訪れた時、「等々力短信」773号に「馬 場辰猪とは親戚でも何でもない私だが、谷中に、親戚の墓でも出来たような、 親しみを感じる」と書いたのを、憶えていて下さっているのである。 (そうそ う、日記に実名で書かせていただく方が多い上、コメントを本名で頂くので、 先日からブログのタイトルに馬場紘二も入れて、責任を明らかにすることにし ました。)

 三田通り角の秋色庵・大坂屋で、葛桜と水羊羹を買う。 山口瞳さんが慶應 の赤レンガの図書館をスケッチした水彩がかかっていた。 山口さんのお母さ んが、この店の贔屓で、何かエピソードがあったのを、小説か随筆かで読んだ 憶えがあった。

馬場辰猪と「共存同衆」「交詢社」2005/07/08 09:04

 馬場辰猪(1850-1888)は、1870 (明治3)年から1874(明治7)年までイギリスに 留学、1875 (明治8)年から1878 (明治11)年まで再渡英している。 井上琢智 教授は、1800年代のイギリスは、アマチュア(同好会)のソサエティーから、ア カデミック(学会)やパーティー(政治団体・運動体)といった組織が出来てくる時 代で、馬場始め多くの日本人留学生が社会科学振興協会の会合に出席して、そ れがどういうものか実際に体験をしたことを強調する。 社会科学振興協会は、 イギリスが直面していた法改正、教育、公衆衛生、社会経済問題等を社会科学 の発展と普及を通じて解決し、社会の改善に寄与することを目的としていて、 この時代の立法に対する批判の場となり、一つの圧力団体として、立法に影響 を及ぼした、という。

 1873年9月、ロンドン滞在中の小野梓と馬場辰猪が相談して「日本学生会」 を結成し、翌年9月小野は日本で「共存同衆」を組織した。 この二つは『言 論の自由』の重要性を自覚し、実践し、体験し、社会科学振興協会がイギリス 社会の改良をめざしたのと同様、日本の社会の改良を改革することを目的とし た。 「共存同衆」は、1878年5月の馬場の帰国で活発化し、9月には800 名参加の第一回年会を開くが、1880(明治13)年4月5日の集会条例で壊滅的打 撃を受ける。 一方、馬場も小幡篤次郎、小泉信吉、阿部泰蔵、矢野文雄と社 則立案委員となり、1880年1月25日に発会式をした「交詢社」は、集会条例 に抵触せず、条例発布直後の4月24日411名が出席して第一回全国大会を開 き、翌年からは地方へも拡大する。

 「明六社」「日本学士院(当初、東京学士会院)」が官製、クローズドなのに対 し、「共存同衆」「交詢社」はボランタリー、オープンな組織だった。

 馬場辰猪は、「共存同衆」や「交詢社」などの「結社」を近代社会形成の一ス テップ(手がかり)として位置づけ、日本近代社会形成の核にしようとした。 ミ クロな「結社」の構成・運営原理を、マクロな国家という大きな「社会」に拡 大し適用しようと考えていたというのである。

福沢・小幡・馬場、それぞれの社会構想2005/07/09 07:09

 井上琢智教授は「明六社・日本学士院と共存同衆・交詢社―福沢諭吉・小幡 篤次郎・馬場辰猪―」で、福沢諭吉、小幡篤次郎、馬場辰猪の三人は、「交詢社」 がオープンでボランタリーな組織であるべきだという点では一致していたもの の、啓蒙団体や社交クラブから政治組織へとその性質を変貌することについて は、それぞれ違うスタンスを持っていた、と述べた。 福沢は、知識階級の知 識交換の場、一種の社会教育の機関としての「学問研究、時事諮詢」のための 結社、社交クラブ止まりという考えだった。 福沢は性急な自由民権運動と一 線を画していた。 井上教授は、小幡篤次郎について、西澤直子福澤研究セン ター助教授の研究を引用した。 <小人閑居日記 2005.5.17.>「小幡篤次郎 の役割と社会構想」に書いた議論である。 小幡篤次郎は福沢を受動的に補佐 していただけでなく、独自の社会構想を持っていた。 小幡は、士族社会の人々 が、士族社会にかわって、近代社会において自分たちの存在意義を認めるよう な、新しい帰属意識を持つことが出来る集団として「健全にして且楽しき新家 庭」を考えていた。

 馬場辰猪は、昨日みたように、「交詢社」というミクロな「結社」の構成・運 営原理を、マクロな国家という大きな「社会」に拡大し適用しようと考え、「社 規」制定の必要性から法治国家の基本としての「憲法」の必要性に及び、自由 党の中心メンバーとして活動することになる。 やがては集団行動への絶望か ら「結社」を通じての「近代社会」の形成を断念し、「個人」行動の重要性を認 識し、「個人」行動へと走り出す。

 前々から思っていたことだが、講演を聴いて、福沢が自由民権運動にもっと 積極的な姿勢を採り、馬場辰猪の運動を推進するような立場に立っていたら、 歴史はどう動いたのだろうか、と改めて考えてしまった。

神代植物公園吟行2005/07/10 10:37

 9日は「枇杷の会」の神代植物公園吟行だった。 「枇杷の会」は慶應志木 高同窓会志木会の俳句の会である。 川越、小石川後楽園についで、三回目の 参加になる。 主宰の本井英先生始めおなじみの8名が参加。 毎回吟行場所 で、一時間から一時間半ほどほっぽり出されて、一人で見て、感じて、みずか らの心の中に入り込み、言葉をさがし、句をつくる。 その静かな時間は、独 特の体験である。 3時の深大寺門集合まで、有り難いことに梅雨空も持って、 つぎのような句を得た。(○印の句を出句)

 ○童心に帰りてさはるおじぎ草

    睡蓮に寄れば強き水の臭い

 ○睡蓮の色出ませんとカメラマン

  めでたさは赤松元気緑濃き

 ○夏つばめわが世の空と飛び交す

 ○中年の恋からまるかのうぜん花

 ○梅雨晴間働き蟻の稼ぎ時

  百日紅探しに行けば柘榴の実

 深大寺をお参りして、「湧水」というお蕎麦屋さんの二階で句会。 私は、次 の五句を選句した。

 あとひとり待つ駅の前梅雨なかば      知水

 斬り結ぶと思ふや躱(かは)し夏つばめ    次郎

 ちょっと傾ぐ賓頭盧尊者黴の堂     英

 薔薇園の憂ひを囲むふかみどり     知水

 チャイム鳴る未(ひつじ)の刻の未草    知水

 拙句は、「夏つばめ」と「おじぎ草」に3点、「のうぜん花」に2点、残りも 1点ずつの合計10点と、思わぬ好成績だった。 11点の知水さん、8点の英雄 子さんの間に入った。 易しくわかりやすい句だから、採っていただいたのか もしれない。 英主宰の選が一つもなかったのは、痛恨の至り。 「採らぬ親 切」という言葉をかみしめ、反省、精進しなければならない。