『北杜夫自選短篇集 静謐』を読む2022/07/22 06:52

 若い頃に北杜夫を愛読した。 『どくとるマンボウ航海記』(中央公論社)が出たのは1960(昭和35)年、その年に『夜と霧の隅で』(新潮社)で芥川賞を受賞した。 私が高校から大学に進んだ年だった。 翌1961(昭和36)年に『あくびノオト』(新潮社)、『遥かな国遠い国』(新潮社)が出た。 『へそのない本』(新潮社)が1963(昭和38)年、青山脳病院斎藤一族の物語、長篇『楡家の人びと』が1964(昭和39)年だから大学卒業の年、これも箱入りの純文学書き下ろし特別作品『白きたおやかな峰』(新潮社)は1966(昭和41)年、もう銀行に勤めていた。 『どくとるマンボウ航海記』の面白さによって軽妙なエッセイに引き込まれ、芥川賞の『夜と霧の隅で』を始め、小説、純文学作品も読んだのだった。

 久しぶりに、中公文庫の『北杜夫自選短篇集 静謐』を手にした。 ほぼ年代順に十篇の短篇、「岩尾根にて」「羽蟻のいる丘」「河口にて」「星のない街路」「谿間にて」「不倫」「死」「黄いろい船」「おたまじゃくし」「静謐」が選ばれている。 読んだものもあったが、まったく忘れていた。

 この内、「死」については、昨年渋沢敬三について書いた時に、北杜夫の斎藤宗吉と父・斎藤茂吉との関係を、「動物学志望、渋沢敬三と北杜夫」<小人閑居日記 2021.12.26.>で触れていた。 北杜夫は子供の頃から昆虫採集にのめりこんでいて、松本の高等学校から大学へ進むとき、動物学をやりたいと、生涯に一度だけ、父親に自分の主張を通そうと試みたのだった。

 「谿間にて」は、「終戦の年の秋、島々の宿場から徳本峠(とくごうとうげ)を越えて上高地に入る谿間(たにま)の道は、むざんに荒された。宿場の川ぞいの家々が浸水したり砂に埋れたりしたほどの大水が出たのである。/私が実際にその有様を見たのは翌年の四月中旬のことだったが、当時、私は松本の高 等学校の生徒で、毎日嫌になるほど腹を空かしていた。」と、始まる。 北杜夫は旧制松本高等学校に在学し、山岳部には入らなかったが日本アルプスの登山や、麻布中学の頃からのめりこんでいた昆虫採集をしていた。 冒頭の「岩尾根にて」も登山の話で、中部地方の三千メートル級の高山の側面に広がった岩場が舞台である。 「チムニーの根元にたどりついた頃には、すでに巨大な岩塊の妖しい魅力が私を捉えていたらしい」とある。 登山用語で「チムニー」は、岸壁に縦に走る割れ目で、通常、身体が入るくらいの幅のものをいうそうだ。

 そういえば、『白きたおやかな峰』も、1965(昭和40)年カラコルムの未踏峰ディラン(7273m)登頂をめざす京都府岳連遠征隊に、雇われ医師として参加した体験にもとづく小説だった。