改めて福沢の『国会論』(『福澤諭吉事典』) ― 2022/07/16 07:06
福沢諭吉の『国会論』についても、『福澤諭吉事典』で確認しておく(執筆は寺崎修さん)。 福沢みずからが書いた早期国会開設論を門下生の藤田茂吉と箕浦勝人の両名の名前で『郵便報知新聞』に発表させ(明治12(1879)年7月29日から8月14日まで、10回連載(14日には、28日から11回としていた))、まもなく福沢著として単行本になった。 福沢の執筆と分らないように、藤田と箕浦によって文章表現に変更が加えられている。
早期国会開設に消極的だった福沢も、明治12年に入ると、自由民権運動の潮流に合わせるかのように、早期国会開設論に傾斜し、同年7月『民情一新』の脱稿直後、本書が執筆された。 『民情一新』は、イギリス流の議院内閣制を導入し、二大政党間で政権交代を行うべきことを提言する重要著作であるが、福沢はこの著作の発表を前に、とりあえず「国会論」を新聞紙上に発表し、世上の反響を確かめようとしたのではないかと考えられる。
福沢はこの本の中で、「国会を起すの一事は日本全国人心の帰向する所にして、その思考は既に熟したるものと云わざるを得ず」と述べ、国会開設の時期が到来したことを力説する一方、当時まだ根強かった時期尚早論の論拠をことごとく批判し、また刊行前であった『民情一新』を引用しながら、イギリスモデルの議院内閣制の早期導入を提唱する。 福沢の論は、植木枝盛などの自由民権家の論と比較すると、表向きは穏健な論にみえるが、内容的には、選挙の結果次第で国会の権限も内閣の権限も同時に獲得できるという構想であり、政権の座に長く居座ろうとする者にとっては、危険極まりないものであった。 政府官僚であった井上毅(こわし)が終始福沢を最も危険な人物として敵視し、また明治20年に至っても警視総監三島通庸(みちつね)が保安条例により福沢を東京から追放しようとしたのは、このためである。
内容はともかく、反響の大きさからいえば、『国会論』の影響は、『民情一新』の比ではなかった。 のちに福沢自身が「図らずも天下の大騒ぎ」になって、「恰(あたか)も秋の枯野に自分が火を付けて自分で当惑するようなものだと、少し怖くなりました」(『福翁自伝』老余の半生)と回想しているように、それは新聞雑誌を通じて広く全国各地に喧伝され、まさに国会開設運動に「火を付け」る役割を果たした。
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