「五反田」の映画館と目黒川の鉄橋2022/09/18 07:20

 「五反田」について。 子供の頃、『ニュー・シネマ・パラダイス』のトトのように映画をよく観た。 幼年時代のトトを演じる子役がかわいい。 悪がきどもが映画館の最前列に並んで、チャップリンに笑いころげている。 私がアボット、コステロや、ローレル、ハーディ、マルクス兄弟、そしてビング・クロスビー、ボブ・ホープの珍道中ものなんかを観ていた時は、歯の抜けた大口をあけ、あんな顔をして笑っていたのだろう。 トトは、五つぐらい年上、おそらく私の兄と同い年だろう。 私の家は男三人の兄弟なのだが、それより先の1948年(昭和23年)私が小学校一年生、兄が六年生の時、弟が生まれた。 時あたかも、映画の黄金時代である。 映画に行くなら「紘二を連れて行きなさい」ということになったのだろう。 もちろん家中でも、よく出かけたから、幼年時代のトトぐらいだった私は、年に似合わぬ映画を、無数に観た。

 「五反田」では、目黒川にかかる大崎橋の右手にあった「五反田セントラル」で洋画をよく観た。 「五反田セントラル」は通称で、正式には東京セントラル劇場、昭和25(1950)年6月にセントラル映画社(CMPE)が開館したという。 上映前、スクリーンにかかるカーテンに、音楽と共に洒落た模様のスライドが流れるのが、斬新だった。 中延には、洋画の荏原オデヲン座と、家のすぐそばに松竹と日活の邦画の荏原センターがあったので、松竹系封切の「五反田劇場」には行かなかった。 大映の映画を観るのに「五反田大映」へ行ったが、中村錦之助全盛の東映の映画はほとんど観なかったので「五反田東映」には行かなかった。 五反田にはほかに、SONYのある御殿山方面の道に五反田名画座があった。 明学の卒業前、学年で一番成績がよく後に弁護士になったT君と二人で、カリフォルニアかスペイン風の建物のある所での大活劇を観に行った。 アメリカとメキシコの戦争を描いた『アラモの砦』だったかと思う。

 明治学院中学に通っていた頃、池上線が大崎広小路と五反田の間で故障して、電車から降ろされて、五反田駅のホームまで、かなりの高さの、目黒川の上にかかる吹き曝しの鉄橋(といっても手すりなどはない)を歩いて、渡ったことがある。 枕木を伝って行くのだが、あれは、身がすくむほど怖かった。

 後に、松本竣介の絵を好んで見るようになって、有名な≪鉄橋付近≫が洲之内徹の研究で五反田駅近くの景色だと知った。 私が、恐る恐る渡った鉄橋の、少し下流の風景だったのである。

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