昭和天皇と「三種の神器」 ― 2005/08/29 08:25
『岩波 天皇・皇室辞典』の「三種の神器」(原武史)の続き。 「戦前までは1 泊以上の行幸で天皇の身近に剣の形代と勾玉を携行する「剣璽動座」が続けら れていた。「剣璽動座」は1946(昭和21)年から中断していたが、74(昭和49)年 に復活した。」
「昭和天皇は東宮御学問所時代、「三種の神器に則り皇道を体し給ふべきこと」 を講義の方針の1つに掲げた杉浦重剛の影響を受けたといわれる。」「実際に天 皇は、敗戦が間近に迫った45(昭和20)年7月31日、内大臣の木戸幸一に対し て、「伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと 思ふ。(中略)自分の考へでは度々御移するのも如何かと思ふ故、信州の方(長野 県の松代大本営)へ御移することの心組で考へてはどうかと思ふ。(中略)万一の 場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ」(『木戸幸一日記』) と話していた。終戦直後の9月9日には、日光にいた皇太子にあてて、「戦争を つゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくな つたので 涙をのんで国民の種をのこすべくつとめたのである」という手紙を 書いた。」
「さらに、46年に作成された『昭和天皇独白録』でも、天皇は「敵が伊勢湾 附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の 余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい、故にこ の際、私の一身は犠牲にしても講和せねばならぬと思つた」として、降伏決断 の理由に「伊勢熱田両神宮」に安置された神器の確保をあげている。」
原武史さんは「要するに昭和天皇にとっては、「国民」の生命よりも、神器の 確保の方が重要だったのである」と書いている。 「「国民」の生命よりも」と いうところは、ちょっと言い過ぎのような気もするが、ともかく昭和天皇にと って「三種の神器」の確保は、国体(天皇制)護持と等しい、最も重要なことだ ったのである。
コメント
_ いわなあみ ― 2009/06/07 01:00
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唯物史観の馬鹿サヨクが、さも頭良さげに言いそうな事です。
そんな単純じゃあないだろうに。
ま、所詮岩波ですから。