高橋誠一郎文部大臣と六三制実施2009/10/25 05:55

 17日の連続講演会「高橋誠一郎――人と学問」の第一席、佐藤禎一さん(東 京国立博物館名誉館長、元ユネスコ代表部特命全権大使)の「高橋誠一郎と戦 後の文部行政」にも、少し触れておく。 佐藤禎一さんは、京大法学部卒、昭 和39(1964)年の文部省入省というから私と同い年、文部事務次官をなさり、 東京国立博物館館長は夏に退いたばかり、「未来をひらく 福澤諭吉展」の時は 館長だったことになる。

 高橋誠一郎さんは昭和22(1947)年1月から5月まで、第一次吉田茂内閣 の文部大臣を務めた。 ちょうど教育基本法と学校教育法が成立した時期で、 現在の六三制の教育制度の礎を築いたことになる。 佐藤禎一さんは、高橋誠 一郎さんの文部大臣就任の事情について、こう話した。 前任の文相は田中耕 太郎さん、六三制実施についての閣内不統一で辞任したといわれる。 義務教 育が6年から9年に延びると、多額の財政負担がかかり、文部当局は積極的だ ったが吉田総理は消極的、GHQ内部でも民間情報教育局は積極的だったが、 そうでない意見もあった。 高橋文部大臣の秘書課長だった剱木(けんのき) 亨弘さんの『戦後文教風雲録』(小学館・昭和52年)にこんなエピソードがあ る。 就任の挨拶でGHQ民間情報教育局のミューゼント中佐(?)を訪問し た高橋文部大臣が帰り際、中佐に何か言われて“Yes,yes,thank you”と言った。  通訳の話では「六三制、大丈夫でしょうね」と、言われたらしい。 翌日、高 橋さんは吉田総理と直談判し、六三制実施が閣議で決定される。 昭和22 (1947)年3月31日、新憲法の理念をふまえた教育理念を宣言した教育基本 法と学校教育法が、旧憲法下で審議されて成立、前者は即日、後者は翌日実施 される。

学校教育法は、一定水準を保証する教育課程の標準化を求め、学習指導要領 の試案がつくられた。 アメリカで流行していた経験学習が取り入れられたが、 効率が悪かった。 それから一年後、六三制二年目の小学校に佐藤禎一さんも、 私も入学する。 佐藤さんは都立大付属小でそれを経験したというが、私も品 川区立の小学校で、机を班の形にしたり、家庭科で芋きんとんを作ったり、ボ タン付けを習ったりしたのが、それだったのかもしれない。

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』<等々力短信 第1004号 2009.10.25.>2009/10/25 05:58

 司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』を11月29日からNHKが放送する。 司 馬さんは生前、この小説のドラマ化を許さなかった。 軍国主義の讃美と取ら れることを懸念したからだという。 ドラマ『坂の上の雲』を見る前に、一読 しておくとよい本がある。 加藤陽子さんの『それでも、日本人は「戦争」を 選んだ』(朝日出版社)だ。

 加藤陽子さんは東大文学部教授、日本近現代史、とくに大恐慌後の経済危機 と戦争の時代、1930年代の外交と軍事が専門という。 神奈川県の栄光学園で、 歴史研究部の中高生相手の五日間の講義と質疑を通じ、日清戦争、日露戦争、 第一次世界大戦、満州事変と日中戦争、太平洋戦争についての「理想の教科書」 作りを目ざす。 歴史学の最新の研究をちりばめながら、日中関係にしても、 従来の「侵略・被侵略」という見方では見えてこない、国際的なパワー・ポリ ティックス、欧米列強のアジアにおける覇権をめぐる圧力の視点で描いていく。  日清戦争は帝国主義時代のロシアとイギリスの代理戦争で、ロシアの南下を恐 れたイギリスは、直前に日英通商条約で不平等条約の一部改訂を約束して、日 本の背中を押した。 日露戦争の前には、同じことをアメリカがやり、戦争二 年前には日英同盟も結ばれている。 日露戦争は、日本をイギリス・アメリカ が、ロシアをドイツ・フランスが、財政的に援助した代理戦争だった、という。

 当然、福沢諭吉(1835年でなく1834年生れとなっている)がなぜ「脱亜論」 を書いたのかも出てきて、坂野潤治さんの読み方が紹介されている。 福沢は もう一つ、藩閥政治下で、民党は議会の多数を占めているにもかかわらず、政 府のポストに食い込めない。 福沢は、朝鮮が日本の勢力権になるなら、政党 員がそこの官僚ポストを取れと言ったと、121頁にある。 出典がないので探 すと、1895(明治28)年4月18日の時事新報論説「大に民論者を用ゆ可し」(『全 集』15巻)だった。 日清戦争の遂行では一致した官民が、戦後も反目しない ようにという、持論である官民調和論上の主張だ。

ジャン=ジャック・ルソー「戦争とは相手国の憲法を書きかえるもの」、胡適 駐米大使の、中国が日本との戦争を正面から引き受け、二、三年負け続けて、 アメリカやソ連を巻き込む「日本切腹、中国介錯論」、真珠湾攻撃の総指揮官淵 田美津雄が戦後キリスト教の布教師になってアメリカを回ったなど、驚くべき 見方、知らなかった人物や話が、随所に出てくる。 過去の事例が、現在・未 来の平和に生かされんことを。