権太楼の「化物使い」後半2009/10/06 06:39

 暗くなってくると、ゾクゾクっとして、座敷に小僧が座っている。 一つ目 小僧。 隠居は、働け、飯を炊け、米を研げ、丁寧に、ゆっくりやれ、透き通 ったら、ザルに開けろ、火を熾せ、土鍋に水を入れろ、糠味噌を出せ、キュウ リとナスだ、糠をちゃんと落せ、小ザルに入れてよく洗え、気を使え、箸と茶 碗を出せ、座って出せ、座れないと立派な噺家になれないぞ、そこは雑巾で拭 け、濯いで、絞って、ピッピッと広げろ、水は庭の植木にまけ、お湯を沸かせ、 よだれたらすな。 涙です、つらい。 お茶淹れろ、座って出したな、覚えた な、お前も飲むか、飲め、肩で息するな、働け、水撒いて、掃除をしろ、井戸 から水汲んで来い、水がめに入れろ、給金払ってんだろう。 頂いてません。 おこげが出来た、いいよ。 お前はどうだ、いただかない、かき餅は食べるか。 踏み台には、飛び上がるな。 そんなことで前座が出来るか。 終ったら、肩 揉め、うまいな、肘でやってます、いいな。 明日はもっと早く来い、いい所 に越して来た。

翌日は、痩せた女の幽霊が、その次の日は、のっぺらぼうの町娘が出る。  隠居はあいかわらず「化物使い」が荒くて、いろいろやらせるが、布団を敷く 段になると、女の化物がひるむ。 そのたびに権太楼の隠居は「私は噺家の○ ○○とは違うから大丈夫だ」という。 私は、○○○の女性問題の事実関係を 知らないので、その名前は書かない。  明日は小僧を出せ、というご隠居に、小僧は出世して二つ目になりました、 という落ち。

広尾、新・山種美術館の速水御舟展2009/10/07 06:44

 2日、広尾に移転したばかりの山種美術館に行ってきた。 近くなったと喜 んで、恵比寿から歩くと、初めてのせいか、けっこう遠い感じがした。 そん なに広くはなかった。 九段の倍のスペースだそうだ。 開館記念展は「速水 御舟―日本画への挑戦―」である。 速水御舟(1894-1935)が、40歳の若さ で腸チフスで亡くなっていることを、今回はじめて知った。 40年の短い生涯 に700点あまりの作品を残している。 山種美術館は、1976年に旧安宅産業 コレクションの105点を加えて、120点の御舟作品を所蔵し、この展覧会でそ のすべてを展示している。

 私は御舟の「名樹散椿」が好きで、昔、「メモ用紙」を入れる箱を手作りして、 それに貼っていた。 子供の頃、庭にあって好きだった椿と、同じ斑紋の紅白 絞りの椿が描き込まれているからだった。 一本の木にいろいろな花が咲いて いる不思議な椿なのだが、今回、京都北区の昆陽山地蔵院(俗称椿寺)の五色 八重散り椿の古木と知った。 御舟が写生した当時樹齢400年、今は枯れて、 二代目の木になっているが、初代のような趣はないという。 切手でおなじみ の「炎舞」(重要文化財)1925(大正15)年、「翠苔緑芝」1928(昭和3)年、 そして「名樹散椿」(重要文化財)1929(昭和4)年は、展覧会の三本柱、みん な山種が持っているのだった。

 日本画の速水御舟が、なぜ副題の「日本画への挑戦」なのかは、また明日。

速水御舟「日本画への挑戦」2009/10/08 07:01

 速水御舟は、常に新たな画風を展開し、日本画の表現の可能性を追求、新境 地を開拓したという。 「梯子の頂上に登る勇気は貴い、更にそこから降りて 来て、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い。登り得る勇気を持つ者よりも、 更に降り得る勇気を持つ者は、真に強い力の把持者である」という言葉を残し ているそうだ。

 松本楓湖の安雅堂画塾で粉本(絵手本)の模写からスタートした御舟は、ま ず、おおらかな新南画風の作品、南画と大和絵を融合させた作品を制作する。  1917,18(大正6,7)年からは、徹底した写実への挑戦を始め、1920(大正9) 年以降は、中国・宋代院体画風を意識した静物画、岸田劉生の影響も受けた細 密描写の人物画などに挑戦する。 この時期の徹底的な細密描写が、「炎舞」へ とつながっていく。 琳派は御舟が生涯を通じて意識していた古典で、1928(昭 和3)年と1929(昭和4)年の屏風絵、「翠苔緑芝」と「名樹散椿」では、琳 派的な大胆な色面による構成を意図して、モティーフは平面的な形態に単純化 されていく。

 1930(昭和5)年、御舟は10か月間のヨーロッパ旅行をする(当時は2か 月近くかかる船の旅だ)。 ローマで日本美術展が開かれ、その使節として横山 大観らと、出かけるのだ。 この展覧会は、何年か前に、8月恒例のホテルオ ークラ「秘蔵の名品 アートコレクション展」で再現したのを見た。 帰国後 の御舟は、裸婦素描や人体各部分の素描などに取り組み、滞欧中に見た西洋絵 画の人物の群像表現を試みている。 今回の展覧会では、最晩年の未完の大作 「婦女群像」の大下図と本画(1934(昭和9)年)が初公開されている。 渡 欧後の御舟は、この人物画のほか、自然の写生から離れた大胆なデフォルメと 構図上の工夫をした多くの花鳥図小品も制作している。

 速水御舟、訪欧の5年後、40歳で亡くなったことが、なんとも惜しまれる。  画家は長生きの人が多いのに…。 90歳まで生きたとしたら、その後の50年、 どんな新天地を開拓し、どんな絵を描いただろうか。

玉川上水・井の頭公園吟行2009/10/09 07:13

 ちょうど仲秋の名月の日だった10月3日、まだ雨が降っている中を、志木 会の俳句の会「枇杷の会」玉川上水・井の頭公園吟行へ出かけた。

  秋黴雨(ついり)人身事故の文字流れ

  雨男誰かゐるらし無月かな

 12時三鷹駅に集合した頃には、もう雨が上がっていて、傘を持って歩くこと になる。 三鷹から生誕百年という太宰治が入水した玉川上水に沿って、吉祥 寺方向へ戻る。 水引や野菊が咲き、紫式部が実をつけ、鈴虫が鳴いている。  かつて水量が多かったという上水は、底のほうで流れているだけだ。 次の渋 谷の句会の兼題は「椎の実」なのだが、椎の実でなく、団栗を拾う。

  水引の花や上水覗き込む

 途中に、山本有三記念館があり、門前に「路傍の石」があった。 「石」の 字から想像したものとは、違うものだった。 戦後、山本有三が漢字を減らし て平易に書くことを推進し、新憲法にも影響を与えたことを、先日テレビで見 たのを思い出す。

  秋風や路傍の石は岩のやう

 萬助橋のところから、井の頭公園に入り、右側の西園という方へ行ってみる (日産厚生園といっていた所か)。 テニスコートや、トラックの跡のようなも のがあり、広場ではイベントをやっていた。 夜は唐十郎の芝居があるらしい。

  秋風や唐十郎の赤テント

 昔から知っている井の頭公園、井の頭池へ向かう。

  そろの木の林の底は虫の声

  弁財天前の池畔のすすきかな

井の頭句会、わが選句と主宰の御句2009/10/10 07:07

 午後2時45分、この吟行の万端を準備してくれながら、海外出張で参加で きなかった善兵衛さん推薦のやきとり屋いせや公園店の前で集合、記念写真を 撮る。 土曜日の吉祥寺が、大変な雑踏だということを知る。 渋谷みたいだ。  バスで吉祥寺駅の反対側、立野町の立野地区区民館まで行き、句会。 私は、 昨日の文中の七句を出す。 「水引の花」と「唐十郎」が主宰の選、「唐十郎」 は他に3票、「人身事故」「雨男」「弁財天」に各1票、計8票と、まずまずの 結果だった。 私の選句は、つぎの七句。

うつたふる二胡の旋律秋深き      英

翡翠の嘴の長さの本気なる       英

鳴き続くすなはち無心昼の虫      次郎

 グランドの端から端を秋の風      孝治

 風来れば宙に踏んばり女郎蜘蛛     次郎

 秋の蚊の眉間を狙ひ来てをるや     次郎

良夜待つ天気晴れたりそぼつたり    知水

 本井英主宰の詠まれたのは、ほかに次の句があった。

野路の秋ビニール傘を太刀佩きに

木の実降る人喰ひ川と呼ばれきて

あぶらげを供へて木の実掃きもして

翡翠のチョッキの茶色大人びし

翡翠の乗りこなしゐる風の枝