速水御舟「日本画への挑戦」2009/10/08 07:01

 速水御舟は、常に新たな画風を展開し、日本画の表現の可能性を追求、新境 地を開拓したという。 「梯子の頂上に登る勇気は貴い、更にそこから降りて 来て、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い。登り得る勇気を持つ者よりも、 更に降り得る勇気を持つ者は、真に強い力の把持者である」という言葉を残し ているそうだ。

 松本楓湖の安雅堂画塾で粉本(絵手本)の模写からスタートした御舟は、ま ず、おおらかな新南画風の作品、南画と大和絵を融合させた作品を制作する。  1917,18(大正6,7)年からは、徹底した写実への挑戦を始め、1920(大正9) 年以降は、中国・宋代院体画風を意識した静物画、岸田劉生の影響も受けた細 密描写の人物画などに挑戦する。 この時期の徹底的な細密描写が、「炎舞」へ とつながっていく。 琳派は御舟が生涯を通じて意識していた古典で、1928(昭 和3)年と1929(昭和4)年の屏風絵、「翠苔緑芝」と「名樹散椿」では、琳 派的な大胆な色面による構成を意図して、モティーフは平面的な形態に単純化 されていく。

 1930(昭和5)年、御舟は10か月間のヨーロッパ旅行をする(当時は2か 月近くかかる船の旅だ)。 ローマで日本美術展が開かれ、その使節として横山 大観らと、出かけるのだ。 この展覧会は、何年か前に、8月恒例のホテルオ ークラ「秘蔵の名品 アートコレクション展」で再現したのを見た。 帰国後 の御舟は、裸婦素描や人体各部分の素描などに取り組み、滞欧中に見た西洋絵 画の人物の群像表現を試みている。 今回の展覧会では、最晩年の未完の大作 「婦女群像」の大下図と本画(1934(昭和9)年)が初公開されている。 渡 欧後の御舟は、この人物画のほか、自然の写生から離れた大胆なデフォルメと 構図上の工夫をした多くの花鳥図小品も制作している。

 速水御舟、訪欧の5年後、40歳で亡くなったことが、なんとも惜しまれる。  画家は長生きの人が多いのに…。 90歳まで生きたとしたら、その後の50年、 どんな新天地を開拓し、どんな絵を描いただろうか。

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