正蔵の「魚屋本多」2010/09/03 06:32

 題名も聞いたことがなかった。 講談の演目だという。 「九十九久保に百本多」といわれ、徳川ゆかりの大名・旗本には大久保や本 多の姓が多い。 その本多の一つのお話。 本多隼人正(はやとのしょう)の 麹町の上屋敷の前で、年の頃二十二、三、身体の大きな、髭剃りあとの青い魚 屋が一休みしている。 暑い日だ、陸にも時化があるのかと、持っていた瓢箪 と朱塗の水飲みで、酒を飲む。 水飲みというのは、柄杓のような、身分のよ いお武家の持ち物で、戦場で水を飲んだりする道具。 二階から、それを見て いた殿様の顔色が変った。 用人の山辺藤太夫が、「これ、ギョバイニン」と声 を掛け、魚を買ってくれるのかと付いて行くと、ややあって殿様の御前に案内 をされた。 朱塗の盃で酒をご馳走になり、殿様は尋ねたき儀がある、その水 飲みはその方の物か、譲り受けたものか、と訊く。

 魚屋は、訳ありで、話が湿っぽくなるからと断わるのを、殿様は話せ、とい う。 自分が生れる前の、三十三年前、尾州小牧で徳川様と太閤様の合戦があ った。 家で手負いの若侍を一晩かくまったが、娘と仲良くなった。 もし子 供が出来たら、その証拠にと、水飲みを置いて行った。 十月十日経って、生 れたのが私、母は産後の肥立ちが悪く、鶯の声を聞く前に死んだ。 十七にな った時、爺様が父親は徳川様のお武家様に違いない、親子の対面をしてくれろ、 と言った。 十八で江戸へ出て、二十五で魚屋を持った。 お父っつあんに、 会いてえ。 話が湿っぽくなって、すみません、魚のお代を…。

 一同の者も聞け、と殿様。 天正十二年四月、その合戦で生き残ったのは、 それがし一人。 するってえと、お父っつあん。 控えよ、まだ親子の名乗り は出来かねるぞ。 お大名と魚屋、何言ってんだ、畜生、どれだけ俺がこの日 を楽しみにしていたか。 その内、必ず名乗りを致すから、許してくれ。

 後日、本多宗太郎と名乗れ、士分に取り立ててやろうと言われた魚屋、今さ ら自分は侍になれないが、六つになる宗吉という男の子がいて、朝からヤット ウの稽古なんかしている、この通りだ、倅を侍にしてくれる訳にはいかないだ ろうか、と言う。 殿様からは孫だ、分家して二百石を遣わそう。 魚屋は訊 く、御用人は何石で? 八十石。 こうして孫が旗本になったという人情噺を、 正蔵は一所懸命に物語って、好感の持てる高座となった。

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