自由な「言葉」の持つ力2013/05/09 06:28

 三浦しをんさんの『舟を編む』で、辞書を編纂する人々、自分の定年前に馬 締光也を辞書編集部に引っ張った辞書づくりひとすじ37年の荒木公平(社外 スタッフとして関わり続ける)、その荒木と30年以上一緒に仕事をしてきた監 修の松本先生、40代前半の契約社員のベテラン女性佐々木、やがて宣伝広告部 に異動する西岡正志、のちにファッション誌の編集部から来る岸辺みどり。 み んな、辞書づくりに魅入られて、のめりこむ、狂的な熱を持った人々だ。 「真 理に迫るための舟」である辞書をつくるには、実践と思考のあくなき繰り返し が必要で、集中力と持続力が要求される。 「辞書はチームワークの結晶」で、 だれかの情熱に、情熱で応えることが必要だ。

 岸辺みどりは、辞書づくりに取り組み、言葉と本気で向きあうようになって、 覚るのだ。 言葉の持つ力は、傷つけるためでなく、だれかを守り、だれかに 伝え、だれかとつながりあうための力だ。 それを自覚してから、自分の心を 探り、周囲のひとの気持や考えを注意深く汲み取ろうとするようになった。 言 葉という武器を、真実の意味で手に入れようとしているところだ。

 料理人である妻の香具矢に馬締は言った。 記憶とは言葉だ、香りや味や音 をきっかけに、古い記憶が呼び起こされることがあるが、それはすなわち、曖 昧なまま眠っていたものを言語化するということだ、と。 おいしい料理を食 べたとき、いかに味を言語化して記憶しておけるか、板前にとって大事な能力 は、そういうことなのだ、と香具矢は気づく。

 松本先生と馬締は話し合う。 日本には『オックスフォード英語大辞典』や 『康煕字典』のように国家の威信をかけて、公的機関が主導して編んだ国語辞 書はない。 だが公金が投入されれば、内容に口出しされる可能性もないとは 言えない。 言葉は、言葉を生みだす心は、権威や権力とはまったく無縁な、 自由なものなのだ。

 残念ながら『大渡海』の完成を待つことなく、松本先生は亡くなった。 だ が、先生のすべてが失われたわけではない。 言葉があるからこそ、一番大切 なものが馬締たちの心のなかに残った。 死者とつながり、まだ生まれ来ぬも のたちとつながるために、ひとは言葉を生みだした。 馬締たちは舟を編んだ。  太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊饒なる言葉の大海をゆく 舟を。