「浅草 小さな旅」知らないことばかり ― 2013/06/11 06:29
6月3日、文化地理研究会の1964年卒業同期の会「六四の会」、学生時代の 代表加藤隆康さんの肝煎りで、「浅草 小さな旅」を楽しむことが出来た。 会 員でない家内も、お味噌で参加させてもらう。 10時20名が雷門交番裏に集 合。 4年先輩で仲見世「助六」の木村吉隆さんご推薦の、台東区観光ボラン ティアガイド宮崎俊光(塾65年卒)さんを始めとするガイドの方々に、まず 浅草寺界隈を3班に分かれて案内してもらう。 われわれの3班は、宮崎さん とガイド卒業試験という中道さんの解説だった。
解説を受けて初めて、日ごろ観音様へ行ってもお詣りして帰って来るだけで、 何も見ていないことがよくわかった。 雷門からして、あの大提灯の底をよく ご覧になったことがおありだろうか。 龍が彫ってあるのだ。 風神・雷神の 裏側には、平櫛田中作・監修と説明のあった天龍(男神)・金龍(女神)像があ る(浅草寺・諸堂案内では、天龍は平櫛田中、金龍は仏師・菅原安男の謹刻、 木曾檜造り)。 平櫛田中が好きだと言いながら、これを知らなかった。
知らなかったことを、列挙しておく。 金龍山浅草寺の宗派は? もとは天 台宗だったが、昭和25(1950)年に聖(しょう)観音宗の総本山となった。 本尊は、例の推古天皇36年の628年3月18日に漁師の檜前浜成(ひのくまの はまなり)、竹成(たけなり)兄弟が宮戸川(隅田川)で網にかけたといわれて いる一寸八分(5.5センチ)の聖観世音菩薩像、秘仏である。 だからお詣り の際は「南無聖観世音菩薩」と唱えるのだそうだ。 兄弟は槐(えんじゅ)の 切り株に観音像を祀り、まわりをアカザ(藜)草で飾った。 一説には、その アカザ草が浅草の名の由来とする(他に、草深い武蔵野で、草が余り茂ってい なかった説、アイヌ語の「アツアクサ」(海を越すという意味)説、チベット語 の「アーシャ・クシャ」(聖者のいる場所)説など)。 槐(えんじゅ)の木は ご神木とされ、浅草神社の境内だったかで見た。 兄弟の主人、土師真中知(は じのまつち、なかとも、まなかち、とも読む)が自分の屋敷を寺にかえて観音 さまをお祀りした後、大化元(645)年、勝海上人が寺を整備し、観音の夢の お告げで秘仏と定めたという。 平安時代初期、延暦寺の円仁(慈覚大師)が 来寺し、お前立ち(秘仏の代りに人々が拝む像)の観音像と版木観世音菩薩御 影をつくったといわれる。 このため浅草寺は、勝海を開基、円仁を中興開山 と称する。
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