大山巌との結婚、その後の活躍2013/08/13 06:32

 新知識を身につけて故国に錦を飾り、今後は日本における赤十字社の設立や 女子教育の発展に専心しようと、意気揚々と帰国した山川捨松に、受け皿とな るような職場は、日本にはまだなかった。 帰国子女の走りで、ものの考え方 から物腰まで、すべてがアメリカ式になっていた。 漢字の読み書きも怪しい。

 ちょうどその頃、大山巌が後妻を探していた。 ジュネーヴ留学3年目に入 ったところで、明治6年政変がおこり、呼び戻される。 西南戦争では従兄の 西郷隆盛と泣いて戦う立場になり、大久保利通が暗殺されると、従弟の西郷従 道とともに薩摩閥の屋台骨を背負う立場になる。 以後要職を歴任、参議陸軍 卿・伯爵となっていた。 この間、同じ薩摩の吉井友実の長女沢子と結婚、三 人の娘があったが、沢子は三女出産後に亡くなっていた。 吉井のお膳立てで 大山が初めて捨松に会ったのは、明治14(1881)年にアナポリス海軍兵学校 を卒業した海軍の瓜生外吉(加賀藩の支藩、大聖寺藩の出身、のちに大将)と 永井繁子との結婚披露宴でのことだった。 大山は捨松に一目惚れしたという。

 吉井を通じて大山からの縁談を受けた山川家は、これを即座に断る。 家長 の浩は当然猛反対、何しろ相手は会津戦争で鶴ヶ城に砲弾を雨霰と打ち込んだ 砲兵隊長だ。 農商務卿の西郷従道が山川家に遣わされ、「山川家は賊軍の家臣 ゆえ」という浩を、「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内でごわす」と説得、 最終的には「本人次第」という回答を得る。

 これを受けた捨松の答が西洋的、「閣下のお人柄を知らない内はお返事ができ ません」と、デートを提案した。 最初大山の薩摩弁がさっぱりわからなかっ たが、英語で話し始めると会話がはずみ、欧州仕込みのジェントルマンだとわ かる。 二人は親子ほどの歳の開き(42歳と24歳)があったが、大山の心の 広さと茶目っ気のある人柄にも惹かれるようになる。 明治16(1883)年11 月8日結婚、1か月後、完成したばかりの鹿鳴館で盛大な結婚披露宴が催され る。 千人を超える招待客は、気さくな捨松に誰もが目を留め、話しかけ、ま た捨松の話に耳を傾けたという。

 折から日本陸軍は、フランス式兵制からドイツ式兵制への過渡期にあった。  明治政府も早期の条約改正を目指していた。 鹿鳴館では連日のように夜会や 舞踏会が開かれ、宴席外交が展開された。 その中で、英・仏・独語を駆使し て、ときには冗談を織り交ぜながら諸外国の外交官たちと談笑する、一人水を 得た魚のように生き生きしていたのが捨松だった。 人々は「鹿鳴館の花」と 呼んで感嘆するようになる。

 捨松は、高木兼寛の有志共立東京病院を見学して、看護婦の姿のないのに衝 撃を受け、看護婦養成学校の開設を提言するが、資金難と知り、日本初のチャ リティーバザー「鹿鳴館慈善会」を開き、明治19(1886)年日本初の看護婦 学校、有志共立病院看護婦教育所の設立を導く。

 日本の女子教育の先駆けとなる夢は、大山巌との結婚で実現しなかったが、 明治17(1884)年には伊藤博文の依頼で下田歌子とともに華族女学校(後の 学習院女子部)の設立にかかわり、津田梅子やアリス・ベーコンを教師として 招聘した。 その後、明治33(1900)年、津田梅子が女子英学塾(後の津田 塾大学)設立することになると、瓜生繁子とともに全面的に支援し、アリス・ ベーコンを再招聘している。 華族女学校で行われた儒教的道徳観にのっとっ た教育に失望していた捨松は、自分たちが理想とする学校を設立したのである。