戊辰戦争と「万国公法」2013/08/20 06:39

 戊辰戦争では「万国公法」が重要な役割を果たし、その理解の有無が一藩の 運命を決めることにもなった。 これも主に松本健一著“日本の近代1”『開国・ 維新』(中央公論社)によって、見てみよう。

 鳥羽・伏見の戦いのすぐあと、イギリス公使パークスは、「万国公法」に立脚 して、局外中立を布告した。(慶應4(1868)年1月25日) 戊辰戦争が維新 政府と旧幕府との争い、もっと正確にいうと「天皇陛下ト大君(たいくん)ト ノ間」の内戦だ、と観察し、イギリスはこれに対して局外中立を宣言する、と いうものだった。 そして、ロシア、オランダ、アメリカなどもこれに追随し、 このため旧幕軍に軍事顧問団を派遣しようとしていたフランスも、局外中立の 立場にたたざるをえなくなった。 それゆえ、軍事顧問団のブリュネ砲兵中尉 などは、五稜郭での旧幕軍の戦いに参加するため、顧問団を脱走するかたちを とり、後に軍事裁判にかけられるのだ。 イギリスは幕府の海軍に派遣してい た江戸の軍事顧問団を横浜に退去させた。

 幕府の大政奉還ではまだ革命の血を流し足らないと考えていた西郷隆盛は、 3月15日に江戸総攻撃を企て、江戸城から退いて上野寛永寺に謹慎している徳 川慶喜の命も差し出させよう、と考えていた。 そのため東征軍大総督参謀の 西郷は、長州の参謀木梨精一郎を品川の御殿山にあるイギリス公使館に派遣し、 幕府への非協力と、江戸開戦後に野戦病院をつくって傷病者の手当てをしてほ しい旨、申し入れた。 ところがパークスは、すでに勝海舟がイギリスは局外 中立を守ってほしいと、申し入れていたこともあり、もはや戦わないことを宣 言し恭順を誓っている敵を攻撃するのは「万国公法」違反だ、と忠告したので ある。

 これによって西郷=東征軍は、江戸総攻撃をあきらめ、海舟が山岡鉄舟を使 者として申し入れていた江戸無血開城(4月15日)に同意するのである。