田中館愛橘は山川健次郎の物理学科を引き継ぐ2013/08/25 06:28

 田中館愛橘(あいきつ)は、星亮一著『山川健次郎伝 白虎隊士から帝大総長 へ』(平凡社)に出てきた。 明治8(1875)年5月、エール大学留学から帰 国した山川健次郎は、翌明治9年1月から東京開成学校の教授補となった。 安 政4(1857)年に設置された幕府の学問所蕃書調所に端を発する洋学校で、幕 末の騒乱で昌平黌や医学所とともに閉鎖されたが、明治2(1869)年復活し、 大学南校と呼ばれた時期もあった。 健次郎は米人教師のピーテェル・ペダル (ピーター・ベーダー)の助手を務め、主に実験を担当、重学(ちょうがく= 力学)、熱学、光学、電気学、電磁気学などを教えた。 翌明治10年4月、東 京開成学校は東京医学校とともに東京大学に改編され、健次郎は東京大学理学 部教授補に横すべりした。 教授は全員外国人だったが、外国に留学していた 日本人が帰国し始め、教授補は大半、日本人だった。 正規の物理学科の誕生 は明治12年で、主任教授はアメリカのオハイオ農工専門学校から来たメンデ ンホールだった。 もう一人、工学部にエジンバラ大学で物理を学んだユーイ ングがいて、物理学科の授業も受け持っていた。 第一期の学生四人の一人が、 田中館愛橘だった。

 田中館愛橘、生れは盛岡の在の二戸(にのへ)郡福岡で、父は南部藩の兵法 師範だった。 南部藩も会津と共に奥羽越列藩同盟に加わり、薩長と戦ったが、 隣の秋田藩が突然、裏切ったため、秋田と戦争する羽目になった。 会津が破 れ、南部藩も降伏、明治の社会で辛酸をなめる結果となった。 愛橘は明治2 年、14歳のときに盛岡に出て和学を学び、翌年、父と一緒に東京に出た。 は じめ福沢諭吉の慶應義塾に入って英語を習い、少しブランクがあったが、明治 9年、21歳のとき東京大学予科(修業年限2年)に入った。 愛橘は予科でも 教えていた健次郎に魅せられ、理科は西洋に学ぶことが多々ある、理科を学ん で国家に貢献したいと、理科を選ぶ。 明治11年9月物理学科の第一期生と して進級、不眠不休で勉強する。 明治15(1882)年7月、健次郎は26歳の 愛橘を卒業と同時に準助教授に抜擢することになる。

打たれても前へ前へ出る男<等々力短信 第1050号 2013.8.25.>2013/08/25 06:29

 「槍の笹崎」を1996(平成8)年10月15日の第752号に書いた。 その 夏ボクシングの笹崎「イ黄」(たけし)さんが亡くなり、笹崎ジムを後援してい た父が前年秋に死んだからだ。 戦後、目黒の清水町に注射用のアンプル製造 工場があり、多少盛んな時期があった(材料の管を小松川で生産)。 近所の笹 崎ジムや、古橋らフジヤマのトビウオの日大水泳部を応援しており、子供の頃 から拳闘や水泳の試合を観に行った。 11歳の昭和27(1952)年5月19日、 後楽園球場で白井義男がダド・マリノを破り世界フライ級チャンピオンになる のも観た。 その白井がタイトルを失って8年、昭和37(1962)年10月10 日、蔵前国技館でタイのポーン・キングピッチを破って、世界フライ級チャン ピオンになったのが、笹崎ジムのファイティング原田19歳だった。

 百田尚樹さんの『「黄金のバンタム」を破った男』(PHP文芸文庫)は、その ファイティング原田を主人公に、白井に始まる敗戦後から昭和45(1970)年 の原田引退までのボクシングの歴史と、それに勇気を得つつ日本の復興へと邁 進する国民の姿を描いたノンフィクションだ。 当時、世界チャンピオンは8 階級、8人しかいなかった。 主要4団体(WBA・WBC・IBC・WBO)だけ で、17階級、68人いる現在とは、世界チャンピオンの価値がまるで違う。 白 井から原田までの8年間、米倉健志、矢尾板貞雄、関光徳、野口恭が、白井を 倒した「小さな巨人」パスカル・ペレス、ペレスを破った「シャムの貴公子」 ポーン・キングピッチに挑戦したが、無念の涙を呑んでいた。

 「練習が好き」という明るい原田は、「鬼の笹崎」の猛練習と、過酷な減量に、 耐え続けた。 愚直に前へ前へと進む、欧米の評論家が「狂った風車」と呼ん だ鬼気迫るラッシュ戦法は、豊富な練習量によって作られた無尽蔵ともいえる スタミナに支えられていた。 しだいにフットワークやフェイントなどの技術 にも磨きがかかる。

 原田には「強運」もあった。 昭和37年6月、長い間不動の世界ランク1 位、キャリアのピークを迎えていた矢尾板が、ポーン4度目の防衛戦の挑戦者 に選ばれ、試合は10月に決まった。 しかし6月東洋タイトルを防衛した矢 尾板が突然、引退を表明する。 中村信一会長への積年の不満が原因だったと いう真相を、百田さんが矢尾板から聞き出している。 日本フライ級の1位は 海老原博幸、ポーン側は代役に2位の原田を選んだ。 原田は11回の最終盤 KOでポーンを倒し、日本人二人目の世界王者になる。

 原田が世界バンタム級を制し二階級王者となるのは、昭和40(1965)年5 月18日、愛知県体育館、世界最強の男「黄金のバンタム」エデル・ジョフレ 戦だった。 レフェリーがバーニー・ロスだった「運命」の物語は、ぜひ本で 読んで頂きたい。