京都の山本覚馬2013/08/18 06:40

 大河ドラマ『八重の桜』は、京都に舞台を移した。 8月11日は、「兄の見 取り図」。 山本覚馬は、目が不自由になってはいたが、旧長州藩士の槇村正直 京都府権大参事(後に権知事、府知事)の顧問として、教育の普及や産業の振 興に、いろいろの提言をしていた。 薩摩藩邸に囚われていた時に記した「管 見」(山本覚馬建白)は、今その藩邸跡に今出川キャンパス(西門に碑)を持つ 同志社大学図書館蔵だそうだ。 京都府中学や、「(女子)も男子と同じく学ば すべし」、と女性が学ぶ女紅場(にょこうば)をつくり、八重はそこで学び、教 えることになる。 「鉄砲の代りに、知識を武器にせよ」「学べば、答は必ず見 つかる」と八重に教える。 『学問のすゝめ』京都版である。 理化学研究の 舎密局(せいみきょく)では、ガラスや薬剤の国産化に挑み、勧業博覧会も提 案した。 京都市民の結婚式場、派手派手の平安神宮は、明治28(1895)年 平安遷都1100年記念の内国勧業博覧会のメイン・パビリオンなのだそうだ。

 松本健一著“日本の近代1”『開国・維新』(中央公論社)に、山本覚馬が4 か所出て来る。 (1)元治元(1864)年3月、佐久間象山が上洛、孝明天皇 の彦根遷座と江戸への遷都を画策する。 9年近く、松代で謹慎していた象山 には、政治上の同志もいないも同然で、わずかに弟子で会津藩士の山本覚馬(軍 事取締兼大砲頭取)と、松代まで訪ねてきたことのある広沢安任(やすとう・ 会津藩公用人)が、相談相手となったばかりだった。 (2)同年7月、佐久 間象山は暗殺され、禁門(蛤御門)の変が起る。 劣勢の会津だったが、薩摩 藩兵が応援に来てくれて、形勢が逆転、長州藩兵は鷹司邸に立てこもった。 そ こへ山崎からの援軍も加わり、長州軍が勢いをとりもどした。 会津・越前・ 彦根の藩兵がこれを攻めたが、塀が高くて、なかなか攻略できない。 山本覚 馬が砲兵隊を指揮し、15ドエム砲(口径15センチ砲)を連発、鷹司邸の塀を 破壊して、一気に形勢があらたまった。 長州の久坂玄瑞は重傷を負い、自刃 した。(つづく)