陶芸を革新した銀行頭取<等々力短信 第1068号 2015.2.25.> ― 2015/02/25 06:37
「日曜美術館」2月8日放送の「銀行頭取 陶芸を革新せり~川喜田半泥子~」 に感動した。 川喜田半泥子(はんでいし)のことは、全く知らなかった。 調 べると、「KJ法」の川喜田二郎さんは、半泥子の次男だという。 文化人類学 者の川喜田二郎さんは、若い頃「KJ法」をかじったから知っていたが、お育 ちまでは知らなかった。
川喜田半泥子、本名久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)は、明治11(1878) 年15代続く伊勢の豪商の家に生れ、大正8(1919)年40歳で三重県の百五銀 行の頭取になり、昭和20(1945)年2月まで、その職にあった。 その間、 地元の中小銀行を買収、合併して規模を拡大し、昭和6(1931)年の金融恐慌 に際しては、自らの個人株を担保に日銀から借り入れた現金を窓口に積み上げ て、取り付け騒ぎを乗り切ったという。
頭取になった40代から、早朝の出勤前と、勤務を終えて帰宅後、趣味の陶 芸に打ち込むようになる。 昭和8(1933)年、千歳山の自宅に築いた登り窯 で、本格的に作陶を開始した。 昭和初期、当時絶頂にあった北大路魯山人と、 「東の魯山人 西の半泥子」と並び称された。 自由奔放おおらかな作風で、 陶芸の黄金期「桃山時代」の茶陶を目標に、抹茶茶碗を始め3万とも5万とも 言われる作品を残しながら、あくまでも趣味のアマチュアとしての立場を貫き、 生涯に作品は一つも売ることなく、友人知人に分け与えた。 志を同じくする 全国の陶芸家と交流し、昭和17(1942)年には「からひね会」をつくるなど して、後に人間国宝となる荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休雪ら陶工たちを支援、 彼らが近代陶芸へと向かう手助けをし、精神的リーダーとなって「近代陶芸の 父」とも評された。 川喜田半泥子、偉大なる素人、究極の趣味人である。
番組で、半泥子の話をした人たちは、「ただひたすら楽しがっている」、「ずっ と子供心を失っていない」、「他からの評価を突き抜けられた人」などと、評し た。
「芸術とは本来遊びである。権勢に媚びるための手段でも、生活の糧を得る ための手段でもあるべきでない。陶芸は余技である。ゆえに自分の理想とする ものを、他人のことなど気にせずに、自由に自分の好きなように作ることがで きる。 ――半泥子」
半泥子と並べて書くのは僭越の極みだが、アマチュアの遊びである「等々力 短信」は、本号をもって40周年を迎えた。 1975(昭和50)年2月25日に、 ハガキ通信「広尾短信」として創刊、私は33歳だった。 「もの書き」でな いタダの人も、息を吸って吐くように、読むだけでなく書き発信すべきだとい う趣旨だ。 市井の片隅から、こんな勝手な発信を続けられた40年間の「言 論の自由」の有難さ、読者の皆様の存在、ずっと「健康で文化的な最低限度の 生活」を送れたことに、感謝感謝である。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。