三好達治と萩原朔太郎の妹アイ2016/09/11 07:16

 石原八束『駱駝の瘤にまたがって 三好達治伝』を、もう少し読みたい。 昨 日「(昭和19年)4月、萩原朔太郎の妹アイを迎えて新生活が始まった。」と書 いたが、アイとはそれまでに経緯があった。 「萩原朔太郎との出逢い」の章 に萩原アイの写真がある。 明眸皓歯の美人だ。

 三好達治は大正11(1922)年(22歳)、京都の第三高等学校文科丙類に入学、 同級の桑原武夫、吉村正一郎、丸山薫、貝塚茂樹と親交を結ぶ。 大正14(1925) 年(25歳)、東京帝国大学文学部仏文科に入学、同級に小林秀雄、中島健蔵、 今日出海、淀野隆三らがおり、次第に親交を結ぶ。 大正15(1926)年・昭 和元年(26歳)、三高出身の東大生、梶井基次郎、中谷孝雄、外村繁らにより 前年創刊された同人誌「青空」に参加、同誌に詩「乳母車」、「甃(いし)のう へ」他を発表。 昭和2(1927)年(27歳)、3月と7月、梶井基次郎を湯ヶ 島に見舞い、同地に滞在の川端康成や、大森馬込村在住の萩原朔太郎、広津和 郎、尾崎士郎、宇野千代らと相識り、また芥川龍之介の訃を聞く。 10月まで 滞在、10月萩原朔太郎の探してくれた大森新井宿寿館に止宿、のち馬込の松田 方に移る。 爾来この詩人の知遇をうけ、妹アイに逢う。 強度の心臓神経症 (狭心症)に苦しみながら卒論「ポール・ヴエルレエヌの『智慧』に就いて」 を仏文にて脱稿。

 昭和3(1928)年(28歳)、3月東大仏文科を卒業、これを機に萩原アイと 一緒になりたいことを萩原家に申し入れたが、文士という無収入の親がかりは、 朔太郎一人でたくさんだから、もし結婚したいのならば、月給取りになってこ いという母堂の条件だった。 やむなく北原白秋の実弟が経営する書肆アルス 社に就職して、その準備を進めていたところ、アルス社が営業不振で社員の馘 首を始めたため、三好は自分から身を引かざるを得ない立場になった。 ため に婚約も解消されて、翻訳に専念、文筆生活に入った。

 昭和9(1934)年(34歳)、1月、岸田国士の媒酌にて佐藤智恵子と結婚。  新婦の佐藤智恵子は、佐藤春夫の令姉の娘であったが、令姉が事情があって京 都の婚家を去ったとき、その二子のうち長兄は祖母の実家の竹田家を継いで竹 田姓となり、長女の智恵子は祖父母の子として入籍されたから佐藤春夫の妹と なった訳であった。 つまり佐藤春夫と8歳下の三好達治は、叔父、甥の関係 でなく、義兄弟になったのだった。 12月、和歌山県で長男達夫が誕生した。  昭和11(1936)年5月、家族とともに上京し、小石川関口町の佐藤春夫邸の 近隣に一戸を構えた。 翌12(1937)年6月、長女松子誕生。 しかし、そ の頃から佐藤、三好両詩人は不和となり、昭和13(1938)年4月、三好は鎌 倉市極楽寺姥ヶ谷に移り住む。 両詩人の不和は、二人が亡くなる昭和39 (1964)年まで続くことになる。

 一方、三好との婚約を解消した萩原アイは、その後、詩人で流行歌の作詞家 佐藤惣之助の後妻となって平穏に暮していたのだが、昭和17(1942)年5月 に萩原朔太郎が亡くなり、その葬儀の際に十余年ぶりに三好と再会した。 と ころが義兄朔太郎の葬儀委員長をつとめた佐藤惣之助は、その二日後に急死し てしまったのである。 運命の糸が三好とアイを結びつけることになった。 師 萩原を喪った三好は、その淋しさもあって、妹のアイに萩原の分身をみていた のではないか、と石原八束は考えている。

 三好は昭和18(1943)年11月に智恵子夫人と協議離婚する。 桑原武夫と 吉村正一郎が、証人になった。 別れた妻子を小田原に残し、三好は昭和19 (1944)年3月末三国に行く。 4月、アイを迎えて新生活が始まることにな る。