イギリスの情報覇権、海底電線と国際通信社2018/01/16 07:20

 当時の最先端技術である電信機器・電信線は先進国だけが保有し利用できる ものだった。 特に大陸間を結ぶ海底電線は、高度の技術、莫大な投資だけで なく、安全な保持・管理に軍事力・海軍力が必要だった。 当時この条件を満 たすのは、イギリス、フランス、ドイツの三国だけ、なかでも被膜樹脂の生産 販売をほぼ独占していたイギリスだった。 英米の実業家たちによって大西洋 横断海底電線の敷設が何度も試みられたが成功せず、シベリア大陸を横断、比 較的狭いベーリング海峡を通って、アラスカから、カナダ、アメリカへという 壮大な計画が生まれた。 ところが1866(慶応2)年に大西洋横断海底電線敷 設が成功し、シベリア・アラスカ回りの英米間電信線は無用の長物となってし まう。 実はこれが日本に深く影響することになる。

 海底電線はイギリスの東方電信会社(Eastern Telegraph Co.=大東電信会 社)によって東にも延び、ロンドンと、植民地インド、シンガポール、中国の 市場は電信線で結ばれた。 もう一方、デンマークの大北電信会社(The Great Northern Telegraph Co.)は放棄されていたシベリアの電信線に目をつけ、ロ シア沿海州へ転進させウラジオストックに出て、日本を中継して上海へ上陸す る電信線を計画した。 思いがけず日本は、地球規模の国際通信網と直面する こととなったのである。 大北電信会社は1870(明治3)年、発足早々の明治 政府に海底電線陸揚げを求めて来て、政府が長崎と横浜への陸揚げを認めたの で、上海・長崎間、長崎・ウラジオストック間の海底電線を完成させた。 こ れによって日本列島は中国大陸、ヨーロッパと電信によって結ばれ、地球規模 の国際通信網の一端に組み込まれた。 朝鮮半島への進出を願望した日本は 1882(明治15)年、長崎・釜山間海底電線を大北電信会社に依頼し、その代 償として同社に日本列島とアジア大陸間の海底電線独占権を認めた。 これは 日本のアジア大陸進出の第一歩となったが、その独占権は長く日本の国際情報 を非常に厳しく縛ることになった。

 大北電信会社はデンマークの会社だが、西欧の共同利益に立っていて、東ア ジアではイギリスの援助を受けていた。 南からの東方電信会社と、北回りの、 大北電信会社は、上海で出会うことになり、香港を境に地域分割協定を結び共 存することになった。 経済力、工業力、軍事力によって、イギリスの優越が 実現された。

 海底電線が延伸されると、国際通信社が進出する。 世界中からニュースを 集め、速報・配信する国際通信社は多額の投資と国際経験・信用が必要な事業 で、当時イギリスのロイター、フランスのアヴァス、ドイツのヴォルフの三社 だけだった。 三社は、それぞれの勢力圏を認め合い、世界を分割し、中国や 日本などの東アジアは知らないうちにイギリスのロイターの勢力圏となった。  1872(明治5)年にロイターは横浜に支局を設立し、最初の客になったのは、 国際ニュースを最も必要としていた日本政府だった。

 これによって、日本および東アジアにおいて、海底電線、それに連動してい る国際ニュース通信の二つ、ハードとソフトをイギリスが握る体制、イギリス の情報覇権が成立し、開国した日本は、否応なくその網の下に組み込まれてし まったのだった。(つづく)